子どもの発達と子どもの権利

 子どもは弱いものとして生まれてくる。人間の子どもは他の哺乳動物に比べて一年早産しているといわれるほどに、子どもは母親に依存しなければその生命を維持することができない。仔牛や仔馬は生後数時間で歩行をはじめるが、人間の子どもはそのために一年の月日を必要とする。子どもは、母親や周りの人との情動的な交流のなかで、最初は乳がよく消化された満足を示すに過ぎなかった笑いも次第に多様になり、泣き声も次第に分化する情動の表現として複雑さを増してくる。子どもは、一歳を過ぎ、歩行を覚え、行動空間が拡大し、模徴とあそびのなかで言語を獲得しはじめると、外界との交流はいっそうゆたかになっていく。
 やがて最初の人格の危機と呼ばれる反抗期が持っている。それは、混合心性的思考から自他の関係が分化し、他人との関係のなかで自律化していく必然的過程の一コマである。この時期までに、子どもの性格と人格の基礎はつくられるといわれている。同時に、象徴的知能の発達はめざましく、やがて学齢期に入って文字や記号を覚え、具体的操作を過して子どもの中心的思考は脱中心化し、その行動は社会化し、同時に個性的になっていく。
 思春期が、第二の人格の危機といわれるように、論理的、批判的思考の発達と、情動の不安定がこの時期を特徴づける。青年の心はこわれやすい。人間は一生を通して、それぞれの人生の節々にふさわしい学習を必要とする。しかし、自ら成長を求めて止まない子どもと青年にとって、学習と教育は決定的な意味をもつ。とりわけ幼児期の、長い、発達の未成熟の期間こそは、保護と教育の必要とともに、その発達可能性・教育可能性を示している。しかもその可能性は、現在のおとなをモデルとしてそのおとなになる可能性ではない。未熟を、単純に未成熟としてとらえるのではなく、そこに発達の可能性を見出し、子どもを発達可能態としてとらえなおすところに、近代における児童観の転換の核心があった。それは現在のおとなをのりこえる可能性でもある。

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 子どもは好奇心のかたまりであり、外界の刺激は絶えざる学習と探求へとうながす。子どもはその刺激を同化し、その構造を調節しつつ再構造化しながら発達する。ピアジエに従っていえば、この同化と調節の絶えざる均衡化への過程が適応であり、それが成長のプロセスに他ならない。学習は適応の手段であり、探求は、高等動物が、その生命の保持のために環境に能動的に適応する反射のメカニズムに根ざしている。探求と学習は、動物の生存にかかわる活動なのであるが、とりわけ子どもの発達の過程は、絶えざる探求と学習の過程であり、驚きと喜びを伴う発見の過程なのだ。同じ刺激のくり返しには、制御が働き、興味はうすれ、同化のメカニズムはやがて新しい刺激を求めて対象をかえる。そこには内的欲求による選択の契機が含まれている。
 教育は、この発見の驚きをつぎの探求へ向けて励まし、その選択に方向づけを与えるものでなければならない。子どもの学習の自由は、その主体的な選択の権利の承認の上に成りたつ。のみならす、子どもが、探求と学習の過程で発する素朴な「問い」は、親や教師に対しても、既成の知識の問い直しをせまる緊張をはらんでいる。このようにみてくれば、子どもの成長の過程での発見の喜びは、秀才だけのものでないことは言うまでもない。むしろ今日では、探求の精神の犠牲のうえに小利口な秀才がつくられている。逆に、知恵遅れといわれる子どもに、常人のおよばない着想があり、素朴な感動の世界がある。
 さて発達には生理的成熟を基礎としての一定の段階がある。遅速の差こそあれ、発達は文化的環境のもとで、確実にその段階をふんでとげられていく。野生児の事例が教えるように、もし発達の初期に、生理的成熟に見合った学習と発達が保障されないなら、以後の発達に、とりかえしのつかない欠損となって現われてくる。一つ一つの段階における十分な発達の保障こそ、つぎのステップの確かな実りを約束するのである。
 わたしたちは、この現在の充実に、子どものゆたかな未来を期待する。それは現在を、いたずらに未来への準備と位置づけて犠牲にする教育観とは決定的に異なる。のみならず、それは、無責任な刹那的現在主義でもない。
 わたしたちは、ワロンのいうように、今日の子どものなかに明日のおとなを見ることが大切である。その明日のおとなとは、今日の古い世代のおとなではない。それは、次の歴史を担うおとなであり、それは今日のおとなの予測を越えて発達する可能態としての子どもに他ならない。子どもを小さなおとなとして、やがてわれわれと同じおとなになるものとしてとらえるのでもなく、その童心におとなの失われた夢を託すロマンチッタな童心主義でもない。
 わたしたちは子どものなかに、今日のおとなを越えてたくましく成長する明日のおとなを見出し、その予測を越えた発達に期待し、それを励ますところにわたしたちの教育観の起点をおきたいと思う。子どもをその誕生から、達切な環境と物質的、精神的栄養によって、守り育てることは容易なことではない。その直接の責任は両親、とりわけ母親が負っている。
 母胎を最初の環境とし、ゆたかな栄養と精神的安定のなかで、子どもは誕生を迎える。食品・薬品公害による異常出産は、環境としての母胎の意味と母体の保護を強く訴えるものであった。発達保障の観点は、受胎にさかのぼって深められねばならない。そのうえ今日では、子どもはあそび場を奪われ、道路には車の危険が待っている。そればかりではなく、早期開発公害とでもいうべき教育公害から子どもを守る必要さえでてきている。
 子どもの成長のためには、適切な保護と養育が不可欠であり、福祉と教育をともに必要としている。とすれば、発達保障の責任は、両親にのみ帰せらるべき問題ではないことも明白となる。
 公害と環境汚染は、老人と子どもに集中的に現われている。とりわけ子どもは、その可能性が奪われ、その発達がいびつにゆがめられるだけに、その損傷は痛々しい。若芽のうちに受けた傷は、成長につれて、次第にその傷口も関いてくるからである。すべての子どもを、その出発点から、その人間的発達を保障するために、保護と養育、教育と福祉の視点を含んでの保育の思想が確立されねばならない。環境保護を含めての発達保障の責任を、親はもとより社会全体が負っているのだという観点の自党が求められている。
 社会全体が、未来を担う新しい世代の誕生と成長を暖かく期待し、そのための環境づくりに協力しなければ、すべての子どもの人間的な発達はおぼつかない。のみならず、今日の経済社会と富の不平等は、その出生の初期から不平等な条件となり、万人平等な発達の権利をおびやかしている。人間の能力は、その可能性としては、ほとんど変わりはない。しかし、新生児が異なった環境と異なった家庭の人間関係のなかで育ち始め、文化との接触のなかで可能性が現実化していくその過程で、その能力の差は開いていく。
 一般的にいえば、経済的・文化的環境の差は、この個性と能力の差として顕われてくる。IQテストの点数は、その点数差の背景にある社会的・経済的・文化的不平等の指標に他ならない、というバランやススウィージーの指摘はあたっているといえよう。同時にしかし、これは大量観察的結論であり、個々の人間にあてはまるわけではない。わたしたちは、経済的な貧しさをのりこえて、なお高い知性や、ゆたかな芸術性をみがきあげた多くの事例をもっているからである。このことは、能力の生得説の根拠としてではなく、困難のなかにおいての人間の能力の発達と開花に対する信頼をこそ回復させるものである。

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