子どもの権利は誰が守るか

 子どもの権利は人権の基底であり、それが実質的に保障されていなければ、その他の成人の人権もまた空虚なものになる。このことは、人権擁護の視点のなかで、とりわけ子どもの権利を守ることの重要性を物語っている。しかしながら、同時にわたしたちは、子どもだけに着眼していたのでは、子どもの権利は守れないという関係に留意しなければならない。たとえば、おとなの人権が奪われている社会で子どもの人権だけが守られるはずはありえない。ファシズムは、人権に対する凶暴な攻撃であったが、そのファシズムの特徴を、ワロンは「ファシズムは子どもの権利を奪うものだ」と規定した。
 人権一般が守られていないところで、子どもの権利の実現を夢見るのは、まさしく幻想でしかありえない。逆に子どもの権利の守られていない社会での人権は、空虚なものでしかない。同様の関係は、親と子の間にもあてはまる。労働権や生存権を含んで、その親の人権が守られていないところで、子どもの人権は保障されない。
 かつて、産業革命の進行と資本主義の発展の過程で、大量の児童労働を必要としたとき、親は子どもの権利を無視して、その子たちを過酷な工場労働に追いやり、それが、親権の濫用として問題になったことがあった。しかし、事柄の本質は、マルクスが「資本論」のなかでいみじくも指摘しているように、児童の権利を奪い、親権を濫用にいたらしめている産業社会にこそその批判は向けられなければならない。

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 親の文化的生存の権利が保障されていないという事態は、それはそのまま、子どもが文化的な家庭環境のなかで育つ権利への侵害であることに、特別の想像力を必要としない。とりわけ、子どもが生誕とともに発達をとげる場はまず家庭であり、その成長を助け、学習を保障し、その健康を守る第一次の責任は親がもっている。これは親の権利というよりは、親のその子どもに対する神聖な義務としてとらえるべきであろう。
 近代民法は、まさにこのような精神を受けとめて、親権を次第にその権利性においてではなく義務性において解釈するようになってきている。そして、その権利性は、親の義務を第一次的に行使する権利を第三者によって侵害されることはないという点に求められるにいたるのである。たとえば、子どもの教育に関して、教育と学習は、子どもの人権の中心をなすものだという認識の上で、その発達と学習の権利を保障するという義務をます第一次的にもっている親は、その子のために、親権者として、教育を選ぶ権利をもっていると考えられる。親の教育の選択権をとびこえて、もし国が子どもたちの教育の直接の担当者としてのりだしてくることは親権の侵害であり、それは子どもの権利を保障することにはならない。
 ファシズムはまさにこの親権を否定し、子どもに対して直接にそれを第三帝国の子とみなし、あるいは「天皇の赤子」として干渉したのであった。ラートブルフは、この点に関して、「ファシズムは、親の権利を否定し、家庭を、共同休(国家)の出店とするものだ」と指摘している。子どもの権利が守られるためには、親の生存権が保障され、文化的な家庭環境のもとでの両親の適切な教育的配慮の権利が保障されることが不可欠なのである。
 しかし、子どもの発達と学習の場は、家庭につきるものではない。現実に家庭が文化的な環境を欠くとき、子どもは両親の偏見にさらされ、偏見のなかでそれを受けつぎながら育つ。そのような現実のもとでは、父母は、その子どもへの教育権を共同化し、学校をつくり、教育の専門家としての教師に、その親権を信託するという関係のなかから、近代学校の思想は生まれてくる。のみならず、今日では、婦人の労働権の保障という観点からだけでなく、子どもの発達保障というより積極的な動機から、幼児教育が重視され、ゼロ歳児からの集団保育の発達的意義がとらえられてきている。現実には、共働きで貧乏人の保育に欠ける子への福祉という観点がなおドミナントであるにしろ、子どもの発達についての研究の深まりと実践の蓄積のなかで、集団保育の積極的意味が理解されてきている。
 さて、保育の、さらには教育の専門家としての保母・教師は、親の教育権の信託という権利根拠のもとで、まさに子どもの発達と学習の権利の保障者としての専門的力量をもつことが求められ、その専門性に対して、父母はその権利の一部を信託する。そこで、もし教師の人権と研究と教育の自由が保障されておらす、教師自身が探求的精神をもち合わせていないとすれば、その教師によって、子どもや青年の探求的精神が掘り起こされ、鼓舞されることはありえないであろう。そのように考えれば、教師の人権と、教師の教師としての権利と自由が保障されていないところでは、子どもの発達と学習の権利は守られないというべきであろう。教師の人間としての、市民としての権利、さらには教育労働者としての権利は、子どもの人権保障の視点と結びついて要求されるというべきである。教師が教育条件確保の闘いを組み、政治的課題にも積極的に対応することは、子どもの権利保障という観点からみても、当然必要なことなのである。
 こうして、子どもの発達と学習の権利の保障は、まずその父母がその責任を負うが、しかし、保育が社会化されればそれだけ早期から、その責任は保育者にゆだねられ、それがやがて教師に引きつがれる。子どもの人間的成長・発達は、親と保母・教師の共同事業として、その責任が適切に分有され、それぞれの固有の役割が果たされるなかで保障される。そのうえ、子どもは、社会のなかで育つのだから、社会全体が子どもの権利の保障の視点に立たねば、子どもはやがてその社会に反逆することにもなろう。保育の社会性、教育の社会性の意識が共通のものになることが不可欠なのである。このことを、かつて、私事の組織化としての公教育ということばで表現した。組織化された私事は、新たな公的なるものに他ならない。
 教育は、自分たちひとりひとりの権利だという観点は、その権利は他人の権利が保障されることのなかで守られるという観点と結びつくことによってはじめて恣意性を説し、ひとりひとりのものであると同時にみんなのものとしての公教育が生みだされる。

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