学習権の問題

 今日の教育をめぐる対立を、国家の教育権と国民の教育権の対立としてとらえる見方が一般化している。
 しかし、それでは、国家と国民の教育権はどのように異なるのかという点になると必ずしも十分に共通理解に達しているとはいえない。そして、国家教育権論者も、今日では、その主張を明示的に国家教育権論と呼ばず、国民に固有の教育権があることは一応認めながら、議会制論と国政の国家への信託論を援用して実質的に国家教育権を主張する場合が多い。本来、主権論と一体であるべき教有権論にあって、国民主権の現憲法下で、国家教育権論は原理的に成り立たないことを承知しているからであろう。
 このことの前提のうえで、それでは国民と国家の教育権論の構造はどこが違うのか。
 そもそも、教育権とは、狭義においては、誰に教育する権利(権能)が属するかということであり、それは、親の教育権、教師の教有権、あるいは国家の教育権として表現されるものであるが、広義においては、教育にかかわる当事者(子ども、親、教師、公共団体等)の権利・義務の関係、責任と権限の関係の総体を教育権と呼び、それがどのような構造をもつかで国民の教育権と国家の教育権に分たれる。その違いは基本的には子どもと国民の学習権の視点の有無、およびそれを誰が保障するかという点に関する論議の対立にあるといえる。
 さらにまた、財界と政府主導の「生涯教育論」が提起されているとき、それに対決する視点として、国民の、その生涯にわたっての学習権の思想を対置することはきわめて重要である。この意味における国民の学習権とは、国民の知的探求の自由、真実を知る権利の総称であり、それは文化や教育に関する基本的人権の確立へ発展する観点である。そして、今日、幼児教育から高等教育まで、さらに、地域と職場の全教育を通して教育改革の必要が叫ばれているとき、その全休を貫く思想こそ、国民の全生涯にわたっての自己実現の権利としての学習権の思想だといえよう。少なくとも国民の学習権の視点を含んで、教育改革は構想されなければならないだろう。
 その上さらに、学習権(知的探求の自由・真実を知る権利)を軸とする国民の教育・文化への権利、広く知的・文化的領域にかかわる人権の確立は、国民が政治の主人であり、労働の主人であるとする思想と固く結びついて、人権を発展的に、構造的に把握するための重要な観点となろう。

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 人間は人間的環境のもとで、文化との接触のなかで、学習を過して発達する。人間の発達にとって、文化と学習の関係がきわめて重要であることは、野生児の例をもち出すまでもない。
 ところで日本語の日常的用語としての学習は既存のもの(知識や技術)を受動的にうつしとる機能としてとらえられがちである。しかし、学習とは本来、人間にとって基本的な探求的活動そのものだといってよい。
 まだことばをもたない子どもが、天井から下ったひもにたまたまふれ、電灯の点滅による視覚刺激と、ひもをひっぱる運動をくり返しているうちに視覚と于の運動を結合するシェマが構成される。ひもをひっぱれば電灯がつくという、単純な事柄も、子どもにとっては、試行錯誤をふくんだ探求の過程であり、子どもは新しい刺激を同化しつつ、既存のシェマをその新しい状況に合せて調節する。学習とはこの同化と調節の過程に他ならす、「発達とは同化と調節のたえざる均衡への過程」だとすれば、発達とは即ち学習の過程に他ならない。
 二歳を過ぎた子どもが、自分の父親に向って、それまでパパと呼んでいたのがある日突然おじさんと呼んだりする。それは、隣の年上の子が、当の人を、おじさんと呼んだから、その子もおじさんと呼んでみたのである。それは、当然の修正を受けて、自分にとってのパパと隣の子にとってのパパは達うのであり、自分にとってのパパは、隣の子からみればおじさんであるといった関係がわかるための必要なステップであり、有意義な、かつ必然の誤りなのだ。
 あるいは、ブロックあそびに熱中する三歳児は、色と形を意識し、その組み合せに没頭する。そしてつくり出されたものに、自分の記憶にあるイメージを結びつけ、両者のごくわずかな類似に着目して、自分のそのものについてのイメージや表象をたしかめ、補足し、変形させていく。
 子どもにとっての基本的活動であるあそびはすなわち学習であり、学習は想像力を媒介とする創造の過程である。子どもの活動を少しでも観察したことのある者は、その好奇心、探求心に、驚嘆しないではおれまい。そして、そのような知的・身体的緊張を伴う学習こそは、子どもにとって、本質的なものであり、学習によって人は人として成長する。
 視野を個体の発達から人類の歴史に転じてみるとき、人類の文化の持続発展の歴史は、類としての人間の探求と学習の活動に支えられてきたといってよい。人類はその歴史を通じて、自然に働きかけ自然を手なずけ、人間自らを変えてきた。そして近代にいたって、自然に対してと同様、人間の自然と社会の関係を対象化し、そこに法則を発見することを通して、社会事象(人事)を治める可能性がみえてきた。社会的関係を知ることによって、またその関係の背後にある本質を知ることによって、自分たちの集団を自ら治めることが可能になる。人は己を知り社会を知ることによって、己を治め社会生活の主人たりうる。知ることは治めることに通じている。
 人間は、ホモ・サピエンスとして、その知的活動に本質的特徴が求められるが、他方でそれは、ホモ・ファーベルとしてものをつくり出すところにその特質がある。人間は思索する存在であると同時に、行動し工作する存在である。
 人間がものを創り出す時、そこには、イメージや表象が介在する。マルクスをもち出すまでもなく、人間は先行する一定のイメージ・表象に依ってものをつくる。たとえその精緻さにおいて劣ろうとも、そこに、蜜蜂の労働と本質的に区別される人間労働の特質がある。知的活動を媒介とする労働にこそ人間労働の本質があるといってよい。
 農夫が四季の移り変わりや、植物の生長の秘密を経験的に学び、大工が木目の性質を見きわめて、美しくかんなで仕上げる。その労働は本質的に経験の蓄積と積極的な活動を伴う探求的活動である。ルソーが、習慣の奴隷になることをいましめ、コンドルセが、もし今日の自分が明日の自分と同じであるなら、今日の自分は昨日の自分の奴隷に過ぎないとのべたように、人間は生涯を通じて、日々新たに、つねに創造的であることによって、自分自身の主人たりうるといえる。生涯を通しての不断の学習と創造的活動を通しての自己ののりこえに人間の本質があるといえよう。

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