権利としての学習権

 学習が、人間的成長・発達の権利として、さらに文化的生存の権利として、確認され主張される必然的根拠がある。それは基本的人権の一つであり、同時に国民主権の実質を支えるものといってよい。
 その権利は、なるほど憲法の条文を探しても見当らない。しかし、教育法学会第一回研究総会での報告にもあったように、この教育にかかわる権利を憲法的自由として提起する根拠は十分に説得的だと考えている。
 そもそも、近代憲法における人権規定は、限定的に列挙されているものではけっしてない。近代の人権思想においては、トマス・ペインがいうように、憲法は政府に先立ち、人民は憲法に先立つというべきであり、したがってまた基本的人権も「人は人として平等である」という信念とともに自明のものであり、それを否定するものにこそ、その挙証責任があると考えられていたといってよい。因に、アメリカ憲法は、当初人権規定をもたなかったが、その理由を、起草者のひとりハミルトンはこう説明していた。「このアメリカ憲法のもとでは、国民はなにものも譲り渡してはいないのだ。国民はすべてを保有している。それだから、とくに保有する規定を設ける必要はない」と。ここには、人権規定が制限的、列挙的なものではない理由が見事に示されている。

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 人権の根拠は、人間が人間であることの自党を自己のなかで深め、それを同じく他人に認めることを措いてない。さきのペインは、そのことをこうのべる。「人間が造物主の手によって作られた時点、その時点で、人間は一体何であったか。人間だったのである。人間であることが、その高貴な、そして唯一の肩書だったので、これ以上高貴な肩書は、人間に与えることはできはしない。」この彼にとって、フランス革命は、圧制のもとでの民衆のみならす、貴族を人間にまで高めたものであり、その意味でも、革命とは人間性の復興だという。そして人間にとっての自然権とは、生存しているとの理由で、人間に属する権利のことなのである。そして、そのなかには、すべての知的権利、ないし精神の持つ権利が含まれており、この権利は、人間社会における市民的権利の基礎をなし、社会においても、この権利を放棄することはないとのべている。フランス革命期の思想家コンドルにおいても、この信念は共通している。精神の自由と理性への信頼こそ、彼の思想の、したがってまた、その教育思想の根底をなすものであった。そして、すべての人間に、人間として当然認められる精神の自由、知的権利には、当然、真実を知る権利と探求の自由、学習の権利と教育の自由が含まれているというべきである。こうして、人権原理を中核とする近代憲法は、当然に精神の自由の一環として国民の学習権を憲法的権利として含んでいたし、思想史的にも、それは本来的に近代に属するものということができる。
 さて、国民の学習権は基本的人権の一つであり、それは、国民主権と一体のものということができる。もし、国民の知的権利、学習の権利が保障されていないなら、国民主権はその瞬間に無内容な、否、国民を欺隔するイデオロギーに転化してしまうからである。そして、国民の学習権が、人間が人間である限り譲り渡すことのできない権利だということが確認されるなら、それは、すべての国民のその全生涯に亘っての真実を知る権利、探求の自由として確立される必要がある。
 国民の生涯を通じての学習権の思想は、なによりもます、人間の本性に根ざし、人間の創造性と文化の永続性、人間の未完成さと、より完成した姿へ向っての不断の努力のなかに、その根拠がある。この思想は、生涯に亘っての国民統制的発想からくる生涯教育論とは、鋭く対立するものである。自己学習の権利の思想を軸とする生涯教育論の源流は、これまたコンドルに求めることができよう。
 人類の歴史に、理性への限りない信頼と、人間の完全性へ向っての断えざる進歩のあとを見るコンドルにとって、不断の学習による理性の発現と、現在の自分の不断ののりこえこそ人間の人間たる所以であった。彼はこうのべている。「教育は、既成の意見を承認することではなく、逆にそれは、つぎつぎに現われる世代の、しかもいよいよ明知なる世代の自由な吟味に既成の意見をさらすということでなければならない」。
 コンドルセにおける新しい世代の権利の主張は、生涯を通しての学習による理性の不断の開花の主張と結びついていた。彼は教育と学習の機会を学校外に開くと同時に、一七九三年には自ら社会教育誌を発行し民衆の啓蒙に努力した。そしてこの思想は、フランス民衆教育思想の底流に生き続けたといってよい。
 そして一九三〇年代には、生涯を通じての教育と、その観点からの学校観の転回を求める主張が現われていた。たとえば哲学者G・バシーフールは、科学的精神の形成を論じた著作のなかで、「いわゆる学校にとじこめられた文化は科学的文化の否定そのものだ」と断じ、学校でつくられたいわゆるよい頭というのは、閉じた頭であり、それは科学の進歩と思考の発展のなかで、つねに点検され、つくりかえられねばならないのであり、継続的文化の原理にもとづく永続的な学校によってしか科学は存在しない」とのべ、文化と科学に向って聞かれた生涯を通して継続する学校の必要を提起した。そこでは、教えられるものこそが教えなければならないとされて、教えるものと教えられるものの弁証法が示されている。この時、おそらくバシラールは、マルクスの「教育者こそが教育されなければならない」という有名なテーゼを想起していたに違いない。彼はまた別の書物で、科学的思考は、永続的教育学の状態のうちにあるとのべ、「どのような文化哲学も、教育学レヴェルの思想を自分のうちに含んでいなければならない。すべての文化は、学習計画、サイクルと固く結びつけられている。科学的文化にとりつかれた人は、永遠の学び人だ」とものべている。そして、この永続的教育学もまた永続的学校と同様に、現にある学校と結びついた教育学の否定の上に成立するものであり、それは、生涯を過して学ぶ人の主体性において成立する新たなるペダゴジーを求めるものであった。そして、このような思想の背後には、人間は未完成いう人間観があり、これはコンドルの人間の無限の完成性と同一の思想的風上にあるものといってよい。人間を未完成としてとらえることは、完成への可能態としてとらえることに他ならす、完成性への過程としてとらえる発想は、現在を未完成とみなすがゆえに現在に対して批判的視点と、それをのりこえる展望とをもつことができるのである。さて、コンドル以来の民衆の継続的な自己学習の思想は、人民戦争の経験をえて、ランジュバン・ワロン教育改革案、とりわけその民衆教育の主張のなかに継承発展させられているといってよい。
 わたしたちは、これらの発想に学びながら、わたしたち自身のことばでつぎのように言うことができよう。国民の学習権の思想とは、国民こそが学問と文化の創造の主体であり、その結果を享受する主人であるとする思想であり、それはいわゆる教育機関に閉じこめられた文化、そのことによって死んでしまった文化を学校の外に解放することによって、すなわち国民ひとりひとりの生涯にわたっての探求と創造にゆだねることによって、社会全体を生きた学校に変えることだと。
 ところで、この規定はなお一般的、抽象的である。そこで、その生涯にわたっての学習権の内容を、いくつかの相に分けて考えてみたい。
 今日、学習権の自覚の広がりとともに、その用法も多様である。たとえば、それは国民・市民の学習権、住民の学習権、労働者の学習権、子ども・青年・成人の学習権、児童・生徒の学習権、あるいは障害者の学習構等の表現に示されているように、発達年齢段階に応じての、その人の活動の場面に応じての、あるいはその人の態様にかかわっての多様な用法がみられる。それらのすべてを貫いて、すべての人の、あらゆる機会、あらゆる場所においての、すなわちその全生涯と全活動の場面を通しての学習権を、その諸相に即して具体的にとらえ、それを構造化する必要があろう。

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