報道の自由と国民の学習権

 報道の自由は、古典的な市民的自由の系として、表現の自由ないしはそれと結びついたプレスの知る権利を含んでいる。ところで報道の自由は、これまでともすればプレスの特権的自由と解されることが多く、しかもそれが権力と資本に支配されることによって情報が歪曲され国民に真実をおしかくす役割さえ果してきた。しかし、この報道の自由は国民の学習権の観点を媒介させることによって、国民の側、情報の受け手の側からの国民の知る権利の系としてとらえなおされることになる。

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 奥平氏は、知る権利の国民的観点からの法的構成をめざす好論文で、資本の論理を媒介させることにより、統制され多様性、多元性を喪失している。マスコミの現状のなかで、表現する者の側にだけ、表現の自由の権利主体をみとめるのでは、すなわち、マスコミの自由だけでは、真の表現の自由は充足できないという認識が、知る権利観念を生ませたのである。いわば表現の自由の権利主体に関する選手交替、主客転換をはからなければならないという考えのあらわれである。とのべている。そして、この主客を転換させた観点こそわれわれの表現でいえば、国民の学習権の観点だといえよう。
 国民の知る権利とは、政府に、政治的公的な情報を国民に知らせる義務を負わせ、マスコミに、積極的にその情報に近づき国民に必要な情報を正確に報道する責任を負わせるものということができる。
 それでは国民の学習権と国民の知る権利の関係はトートロジーなのであろうか。国民の知る権利は今日、憲法学においては、個人の人格の発展と自己実現を可能にするための個人権であるとともに、政治的な意思形成の前提となり、政治過程への参加を確保するための公的な性格をもつ権利であり、その重点および現代的意義は後者にあるとされ、それは、教育的な情報の自由を含みつつ政治的な報道の自由を本旨とする権利として法理論化されつつある。このことを認めるなら国民の知る権利を国民の学習権と同義語化すべきではなく、遂に、国民の知る権利は、広く国民の学習権の一つのコロラリーであり、国民の学習権の観点こそ、報道の自由、とりわけ政治的公的な報道の自由としての知る権利を国民の知る権利へと転換させる観点として相互に関連づけるべきであろう。
 国民の知る権利は、国民主権と政治的自由と不可分のものであり、本来その起源において古典的な権利であるにもかかわらず、大衆社会状況を媒介とする新しい権利として、主張されるにいたっている。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンの顧問弁護士で、「知る権利」の提唱者K・クーパーはいう。「市民は、十分で、正確に提供されるニュースを受ける権利がある。一国においても、世界においても知る権利の尊重なしに政治的自由はありえない」。ところで、いみじくもウォーターゲート事件が示しているように、公権力(大統領)は、国民を信頼せず、国民の私事のすみずみまで、手段を選ばす「知る権利」を行使し、他方、国民は、必要なことは何事も知らず、虚偽の情報を信じこまされている。そしてこのからくりによって今日の大衆民主主義は機能しているのであり、「国民の知る権利」は、国民主権の内実をつくり出すことと結びついてその重要性を示しているといってよい。

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