学問の自由と国民の学習権

 わが国における学問の自由と大学自治の展開史をみればわかるように、それは、市民的自由の系譜とは異なって、特権的な自由として主張され、定着していった。
 大学自治の両期をなす帝大七博士事件に際し、井上氏は、「太陽」に「帝国大学論」を書いて帝国大学の政治権力からの独立の必要を力説したが、そのなかで、帝国大学はすでに学科目を整備され、私立専門学校のような速成学校とは断然その趣きを異にしているのだから、帝国大学だけは特段の自治が保障されなければならないと論じた。そして、この特権的自治論はつぎのような学問観と対応していた。井上氏はその論争相手に、「氏は東京専門学校(早稲田大学)を卒業したる位にて、我輩の著書を批判すべき力なきは、固より論を僕たざるなり」、「氏杯が大学の教育をも受けずして、をこがましくも優勝劣敗の争に嘴を容れ、学者を以て自ら居るを以て之を観れば、我邦文学の程度の卑きこと、推して知るべきなり」と罵言をあびせる神経の持ち主であった。その特権的学問観は学問と教育の区別論に必然的につながっていた。校は南北朝正閏問題に際して、学問と教育が区別さるべきこと、教育においては、国民道徳の形成という観点こそがその原理たるべきことを主張していた。
 かくして、学問の自由は、国民教育と断絶し、専門学校を越えて、ひとり帝国大学にのみ保障さるべき特権的自由であり、自治に他ならなかった。しかもそれは、「国家ノ須要二応ズル」学問に許された自由であった。このような学問の自由観は、ファシズムに抵抗した自由主義者の大学自治論にも、色濃く影響を与えることになった。たとえば河合栄治郎は、「たとへ社会に自由がなからうとも、大学だけには自由が保障されなければならない」として大学における学問の自由を主張した。これをファシズムの下における大学人のぎりぎりの抵抗の表現だと評価するむきもあろうが、しかし、社会に自由がないとき大学に残された自由は空しく、これが真に抵抗の自由であるなら、それを守る力はすでに失われているといわなければならない。これは、わたしたちにとってにがい歴史の教訓であろう。

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 戦後の大学改革は、国民教育改革の一環としてなされ、そこにおける学問の自由も、それを基礎づける論拠は、かつての井上氏に代表されるような特権的なものから、国民的観点へと決定的に転回した。因に、学問の自由を規定した憲法二三条を虚心に読めば、それが、なによりも国民ひとりひとりの権利であり自由であることは、誤読の余地はない。
 にもかかわらず、法律の世界においては、なお、戦前的、伝統的学問の自由観から訣別できず、それを大学自治論へと短絡させて特権的自由と解する説から今日においても完全に解放されてはいないように思われる。しかし、憲浩二三条は、国民ひとりひとりの基本的人権の一つとして学問の自由、探求の自由を規定した条項である。学問の自由は、もはや大学人の特権ではない、それはなによりも国民ひとりひとりの知的探求の自由、真実を知る権利・学習の権利の系としてとらえられるべきものである。学問研究の主体は国民に他ならない。学問の自由は、市民的自由と別のものではない。この視点は、従来の独善的な象牙の塔的大学説への批判と、産学協同による学問の退廃の批判の視点となり、より積極的には、学問の国民化の主張となる。
 学問の国民化とは、学問の主体が国民であること、専門研究者の研究の自由は国民の学習権の信託にその根拠をもつこと、したがってまた研究の内容は国民的課題に応えるべきものであること、その研究成果は正しく国民に伝えられ、教育と学問とが不可分のものとして結合され、それを保障する国民教育制度が確立さるべきこと、そのため大学は国民教育の一環として位置づけられ、国民のための大学として再生すべきことを求めるものだといってよい。
 アメリカの政治学者マイクルジョーンも、専門研究者の学問の自由は、人民の自由の特殊的従属的形態であり、専門研究者は、本来人民に属し人民みすから行なうべき知的活動を継続的に行なうことを信託されているのであり、かくしてわれわれは、人民の代理者として行動するが故に、人民はその仕事の分野で必要な自由をわれわれに付与する。一言でいえば、われわれの学問の自由の窮極的な正当性は、われわれの目的のなかに見出さるべきでなく、人民のなかに見出さるべきものである。とのべている。
 内田氏も、今日の社会科学が国民操作の学として発運してきたので、学問が真に国民のためのものになるためには、国民ひとりひとりがアマチュアとして学問創造に参加しなければならないと主張している。
 そして、今日では、とりわけ国民が学問研究の主体であるという観点が、単に権利論的視座において意味をもつにとどまらす、その実質においても、国民が同時に地域住民のひとりとして、地域開発反対運動や公害反対闘争のなかで、あるいは教育に開する住民運動のなかで、学習運動を展開し、それが運動の質を高め、政治的な力量を高める力になっている点に注目したい。学問の国民化は、同時に国民の学開化であり、それは究極的には、ひとりひとりの国民がその実質において学習と探求の主体となることだといえよう。
 こうして、国民の学習権の視点は、必然的に学問の国民化を求め、学問の自由を、特権的自由から、国民ひとりひとりを探求的主体に育てる権利へと転回させる視点となる。同時にそれは、専門研究者の研究の自由の根拠を明らかにし、その研究の社会的責任を自党させる契機となる。

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