国民の教育権と学習権

 教育の自由は、歴史的にみれば、教育に対する公権力の統制からの自由、教育の自律性の観念を発展させるのに役立った。それは、思想・信条の自由と結びつき、他方で親が子どもの教育を選ぶ自由と結びついて、法制史的には、私立学校設立の自由と解された。
 しかし、子どもの権利が認められ、子どもこそが教育の主人であり、子どもの発達段階にふさわしい教育を保障する責任を親と社会が負うという観念の成立とともに、教育の自由は、教育への権利と一体のものとして把握されるようになる。さらに、国民主権と教育への権利が不可分のものとして結びつけられて、国民の教育権思想を生みだすにいたった。杉本判決は、この思想を判決に結晶させたものといえる。
 子ども、青年の学習権の視点は、教育の自由についての古典的な観念を教育への権利と結びつけ、憲法二三条と二六条を統一的に把握する視点だといってよい。この両条文を支える共通の視点こそ、国民ひとりひとりが探求の主体であり、学問、文化の創造を担い、その成果を享受する主体であるとする思想であり、そのためにそれは一方で、学問の国民化を求めると同時に、とりわけ、発達可能態として子ども、青年に教育への権利が具体的に保障されることを求めるものである。

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 教育の自由が、教育の国家からの自律性、独立性と、教師の研究と教育実践の自由の保障、そして、両親がその子どもに代わって、彼にもっともふさわしい教育を選ぶ自由を主要な内容としているのに対し、教育への権利は、ジャン・ピアジエが世界人権宣言二六条解説でいうように、それは「個人が自分の自由に行使できる可能性に応じて正常に発達する権利」であり、「社会にとっては、これらの可能性を現実化する義務」であり、それは具体的には、「各人に読み書き算の取得を保証するよりもはるかに重い責任を負わすこと」である。「それは本当の意味ですべての子どもに彼らの精神的機能の全面的発達」を保障することであり、「個人のなかにかくされていて、社会が掘りおこさなくてはならない可能性の重要な部分を失わせたり他の可能性を窒息させたりしないで、それらの可能性を何一つ破壊もせず、だいなしにもしないという義務をひきうけること」なのである。教育への権利の思想は、教育を選ぶ自由を前提とし、それを越えた思想だといってよい。
 教育の自由を教育への権利としてとらえなかす視点は、教科書の自由に対しても新たな視点でのとらえなおしを求める。教育の自由は教科書の自由を含んでいる。ところで教科書執筆の自由は、他方で、表現の自由の系と解される。そして、表現の自由の系としてのプレスの自由(知る権利)が、国民の学習権の観点を媒介させることによって、その自由が「国民の知る権利」に従属するものとして位置づけなおされたと同様に、教科書執筆の自由も、単なる表現の自由の系としてではなく、児童、生徒の学習権保障の観点に従属するものとして位置づけなおされる。そして、そのことによって、教科書の自由は、教育権論に不可欠の構成要素となり、国民の教育権に内在的に位置づけられることになる。
 近代国家は、身分制と世襲制を打破し、職業の自由と機会均等の原理を確立した。それはわが憲法でも二二条の職業選択の自由として規定されている。しかし、職業選択の自由は、現実の資本主義社会では、失業の自由につながり、身分制にとって代わった財産の原理は、現実の社会の流動化を抑え、ひとりひとりの個人的な人間的資質の発現をおしとどめてきた。したがって、職業の自由が真にひとりひとりの個性の発現と結びつき、職業がその個性を発揮する機会となるためには、その子どもと青年の時代における発達と学習の権利が充足されていることが前提となるべきであり、かつまた、その労働がその人間の自己実現の機会とならなければならない。そのことは、労働そのものが、学習と探求の過程となることを意味しよう。同様に幸福追求の権利もまた、発達と学習の権利が充足され、ひとりひとりが自由な探求と自己実現の主体であってはじめて、それが不幸になる自由ではなく、真に個性的な幸福追求の自由と権利の実質をもつことになろう。
 国民に保障されている政治的自由も自由な投票の擬制による支配される自由に堕することなく、主権者としての自覚に基づく自治の権利の行使でなければならない。自治の権利は、自己学習の権利と不可分一体である。その真実を知る権利の行使によってのみ、政治や社会についての正確かつ十分な情報に基づく科学的判断と主体的選択が可能になる。
 こうして、国民の学習権の視点を媒介して古典的自由をとらえなおすとき、表現の自由は国民の知る権利へ、学問の自由は学問の国民化へ、教育の自由は教育への権利へ、職業の自由は労働と自己実現の権利へ、そして、政治的自由は主権者国民の自治の権利へと発展的にとらえることが可能となる。こうして国民の学習権の契機は、人権を消極的人権から積極的人権へ、守る人権から要求する人権へと転換させる契機となる。
 同時にまた、国民の学習権は、マスコミ・ジャーナジズム関係者、専門研究者、教師等、国民の精神的自由と権利にかかわりをもつ職業人、専門家に対して、その専門職業の存在理由と、その専門的自由の根拠を問いなおす視点となる。その職業に付随する自由と責任の根拠は国民の学習権の信託に求められ、その結果、マスコミ関係者に対しては、その自由は国民に真実を伝えるためのものであるという自党をうながし、学問研究者に対しては、その自由が国民の探求の自由の信託に応えるべき社会的責任の意識に裏打されていることを求め、教師に対しては、その責任と権限の窮極的な根拠が子ども、青年(生徒・学生)の学習権の充足という任務によって規定されているという自党をうながす契機となる。
 かくして、国民の学習権は、それ自体人権の一つであると同時に、その他の人権の実質を規定し方向づける意味において、まさしく人権中の人権、とりわけ基本的(基底的)な人権といえよう。

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