問題としての教育権

 今日の教育問題のなかには教育権をめぐる鋭い対立があり、教科書裁判、勤務評定裁判、教師の研修権裁判、学カテスト裁判等、重要な教育裁判でもその争点の中心問題をなしてきた。
 まず、教育権とは何か。広義では、教育の当事者である子ども、親、教師、国民、国家等の、教育に関する権利・義務、責任と権限の関係の総体をいう。これらの関係の総体が、何を機軸としてどのように構造づけられるかによって複数の教育権理論が成立してくる。
 狭義では、教育権を、教育する権利(権能ないし権限)という意味に限定し、この権利の所在とその根拠が問題にされる。たとえば親の教育権・教師の教育権・国家の教育権等の用法がそれである。そして、親・教師(国家)の教育権、子どもの学習権、国民の教育を受ける権利とどう関係づけられ、どう構造づけられるかが、広義の教育権論の課題である。したがって、教育権という用語は、文脈的に理解することが必要であり、とりわけ広義のそれは、分析的概念ではなく、それ自体論争的概念だといえる。
 それはまた、わが国の現行法制のもとでは、国民の思想・信条の自由、表現の自由、学問の自由を前提とし、第二六条の国民の教育を受ける権利と義務教育の規定を軸として、親権者(親)のその子への教育的配慮の責任、教育行政の教育条件整備の権限とその限界の規定、教育の不当な支配の排除と教師の教育権限の独立の規定、さらにそれらに基づく関連法規をどう統一的に把握、説明するかの問題である。そのとらえ方いかんによって、教育内容、行政のあり方、教師の研修権、職員会議の任務とその権限、PTAの任務と権限等、具体的な教育諸活動の根拠やその責任の内容が大きく変わってくる。

スポンサーリンク

 今日の教育をめぐるさまざまな対立の根底には、狭義における教育権の所在、広義における教育権の構造のとらえ方の違いがある。その主張の差異は、教育実践と教育行政の緊張的関係のなかに日常的にあらわれ、教育裁判を通して浮き彫りにされている。それはその本質において国民の教有権対国家の教育権の争いである。にもかかわらず、国民主権のもとでは国家の教育権論は、論理必然的に成立しえないことが明白であるが故に、現象的には、国民の教育権をめぐる解釈の争いとして行なわれていることに注目したい。
 一九七〇年七月一七日、家永教科書訴訟に対する東京地裁判決は、「国民の教育の自由」説に基づいて、「国家の教育権」論を退けた。これに対して文部省は、いち早く「教科書検定訴訟の第一審判決について」を発し、「判決理由に述べられている教育権、教育の自由、教育行政の範囲などにっいては、下記のように問題が多いことにご留意のうえ、国民全体の付託に応ずる正しい学校運営に適憾のないよう特段のご配慮を願います」とのべ、判決の無力化につとめるとともに、文部省の教育権解釈をっぎのように展開した。
 「現憲法下の国家は、主権者である国民の信託を受けて国政を行なっているのであり、国民と国家とは対立的な関係にあるものではない。憲法第二六条は国民の教育を受ける権利を保障し、これを法律の定めるところにより十全に実現すべく求めているのであって、国はこの権利を積極的に保障する責務を負い、この責務を果すために、教育課程の基準を定め、教科書の検定を行なっているのである」とのべ、注記して仙台高裁の学テ判決を引用している。そこには「公教育は、国家が国民からその固有の教育権の付託を受けて、国民の意思に基づき国民のために行なわれるべきものであり、国民のて殷的教育意思を適法な手続的保障をもって反映し得るものは、議会制民主主義のもとにおいては国会のみでありそこで制定された法律にこそ国民の一般的教育意思が表明されているものというべく、したがって、法律に基づいて運営される教育行政機関が国民の教育意思を実現できる唯一の存在であって、他にこれに代るべきものはないのであり、他方、教育実施に当る者は、かかる教育行政の管理に服することによって、国民に対し責任を負うことができるからである」とのべてある。
 ここでは、国家の教育権を正面から主張するのではなく、国民が「固有の教育権」をもつことを認めた上で、代表制民主主義国家のもとでは、国家と国民を対立させてとらえるべきではなく、公教育は、国家が国民からその固有の教育権を付託されて国民の意思に基づき国民のために行なうべきものだというのである。
 この論理は、教科書裁判での国側の最終準備書面にも採用されている。
 この論理は、一見通りがよいようにみえる。とりわけ国政への参加とは何年に一度かおとずれる選挙、それもその投票行為のことだと観念し、またそれがあたりまえだと思い込まされている受け身一方の国民には、いかにも筋の通った言い分に聞えよう。しかし、親と子の関係のなかで、教師と生徒の関係のなかで、日常的に行なわれている教育と学習の活動を具体的に想起しながらこの規定を読めば、そこには、のっぺらぼうの国民とその付託によって癒着した、目鼻だちのない無気味な国家があるだけである。そこでの国民とは、すべてを議会の多数派に付託し、おまかせする投票人でしかなく、国家ほ、教育行政当局として姿を現わし、教師は行政の管理に服するものであり、その国の管理のもとで教育実施に当る者でしかない。そこには、子ども、親、教師というまさに教育の関係を具体的に構成しているものの名辞さえも、全く姿を消しているところにこの主張の特徴がある。
 国民は、たしかに議会でつくられた憲法と教育基本法を承認している。しかし、その教育基本法は、教育の目的を、多様な人間性の開花におき、教育の自由を支持するとともに、教育が国民に直接にその責務を果すべきことをうたっている。そしてそのためにこそ教育基本法一〇条は、教育行政の責任とその限界を規定していることを忘れてはなるまい。
 教育は、まさにこの文部省通知や仙台高裁判決にみられるような、官僚的、独善的思惟にはなじまない。杉本判決のことばを借りれば、教育の仕事は、「政党政治を背景とした多数決によって決せられることに本来的にしたします、教師が児童、生徒との人間的なふれあいを通じて、自らの研饌と努力とによって国民全体の合理的な教育意思を実現すべきものであり、また、このような教師自らの教育活動を通じて直接に国民全体に責任を負いその信託にこたえるべきものと解される」ものなのである。
 このような問題的状況のなかで、出された最高裁判所の学力テスト判決は、教育権をめぐる争いに、一石を投じるものであった。今後の教育裁判の動向に及ぼす影響は大きいと思われる。判決は、第二六条の義務教育の規定を、「国が積極的に教育に関する諸施設を設けて国民の利用に供する責務を負うことを明らかにするとともに、親に対し、その子女に普通教育を受けさせる義務を課し、かつ、その費用を国において負担すべきことを宣言したもの」とのべるとともに、つぎのように続けている。
 「この規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必荷な学習をする固有の権利を有すること」とのべて、国民の学習権を認め、さらに、特にみすがら学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を大人一般殷に対して要求する権利を有するとし、「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもます、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属する」とのべ、国民と子どもの学習権を、固有の権利として確認していることは、教育学、教育法学の発展を反映させる第二六条解釈として画期的なことだといってよい。
 判決はさらに、「子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものである」ということからは、「教育の内容汲び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない」とのべ、第二六条からは国が教育内容を決定すべきであるか、その介入が拒否さるべきであるかを、「直接一義的に決定していると解すべき根拠」はどこにもないとのべ、「そうであるとすれば、憲法の次元におけるこの問題の解釈としては、関係者らのそれぞれの主張のよって立つ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべき範囲を画するのが、最も合理的な解釈態度というべきである」と、その解釈の立脚点を示した上で、親、教師、国家、地方公共団体の教育への権能の範囲を明らかにしようとしている。
 この論理の運びは、代議制論をたてに、当然に国が教育内容に責任をもちうるとする文部省見解や、第二六条二項の反面解釈から当然に国家の教育権が認められるとする解釈とは追って、慎重、かつ適切な発想だといってよい。
 われわれもまた、教育に関する権能が、誰かに、たとえば、国か地方のいずれかに、あるいは文部省か日教組のいずれかに、独占されるのではなく、父母、教師、地域住民、そして、国や地方の教育行政機関等々で、いわば国民総がかりで、若い世代の学習権を保障する責任を分担するものと考える。そして、その権能は、あれこれの憲法条文から直接に導かれるというよりは、遂に、人権としての教育の思想の展開が示しているように、教育の本質と条理に即して、それぞれの教育関係者の権能(その権限と責任)のあり方が示されるべきだと考える。さらに、定着し、深化しつつある民主的な教育慣行や、発展し続ける国民教育運動に支えられての国民の教育権論が、法解釈を変化し、発展させ、条文の内包をゆたかにしてきたことは、教育裁判の推移そのものが示しているとしている。
 われわれは、国民の教育権を抽象的に、かつ固定的にとらえてはならないのであり、人権としての教育の思想を前提とし、子どもの学習権を中心に、父母と教師、そして教育行政の責任と権限の総体を、具体的、かつ発展的にとらえることが必要である。
 国民の教育推論は、一方で、国叛の学習権思想の展開と、他方で子どもの権利の思想の展開の上に、国民主権の実質を担い、かつまた子どもの発達、学習の権利の具体的保障のための理論として構築されるべきである。

子どもの発達と子どもの権利/ 新教育と子どもの権利/ 子どもの権利の構造/ 日本での子どもの権利の歴史的背景/ 子どもの権利の内容/ 子どもの権利は誰が守るか/ 人権と子どもの権利/ 学習権の問題/ 権利としての学習権/ 市民の学習権/ 住民の学習権/ 子供と青年の学習権/ 報道の自由と国民の学習権/ 学問の自由と国民の学習権/ 国民の教育権と学習権/ 問題としての教育権/ 国民主義と国民の学習権/ 子どもと青年の学習権/ 親の教育義務とその信託/ 学校と教職員の責務と権限/ 教育行政の責任と住民自治の原則/ 教育基本法体制/ 教育の淵源としての国体/ 学問教育の自由/ 義務教育の概念/ 教育基本法の成立/ 憲法と教育基本法/ 教育の目的/ 争点としての教育目的/ 教育行政の理念/ 教育基本法体制成立の意義/ 教育勅語の処理問題/ 地方自治原則の位置づけ方/ 戦後教育改革の抽象性/ 民主化の行き過ぎ是正/ 期待される人間像と教育基本法/ 国民教育運動の展開/ 学力テスト判例の蓄積と最高裁判決/ 戦後日本での法と教育の特殊性/ 教育固有の価値と教育法/ 人権の歴史性と普遍性/ 教育の自由と権利の展開/ 人権中の人権としての学習権/ 教育認識の発展と教育条理/

       copyrght(c).子育てと育児.all rights reserved

スポンサーリンク