親の教育義務とその信託

 子どもは学習の権利をもつ。しかし、もし子どもを自然に放置すれば、野生児の事例が示すように、彼らの人間的発達は保障されない。人間が人間になるためには、それにふさわしい文化的環境と、発達と教育への配慮が必要である。学習はそれ自体自発的活動であるが、その機会と条件を周囲から整えることが不可欠である。子どもの発達には、なによりもまず両親の、そして社会の援助や励ましが必要なのである。
 本来自己充足的でなく、他者を予想する子どもの学習を、それでは誰がどう保障すればよいのだろうか。それは、子どもの誕生からの発達に即して考えれば明らかなことだ。
 子どもはふつうは、家族のなかで生まれ、家族の愛情のなかでその人間形成の第一歩をふみ出す。子どもにとって、その母胎環境がそして乳幼児期の保育が、その人格の基底をなす性格形成や知能の発達にとってきわめて重要であることは、よく知られている。子どもはニカ月を過ぎれば、授乳を通して母親と情動的に交流し、微笑を浮べる。それは感情のゆたかな発達の第一歩である。

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 家庭環境や父母のしつけを無視して子どもの人間的成長を語ることはできない。子どもの発達保障の責務は、誰よりもまず父母にあり、それは両親の自然的な責務に属するものだといってよい。そして今日では、両親の親権は民法的にも、子に対する権利ではなく、義務として、自然的責務としてその解釈が定着しているといってよい。それは、家父長制のもとでの、子に対する支配権ではなく、なによりも子どもの権利を守り、その人間的発達を保障するための保育と教育の責務を中心的内容としている。同時にこの親権は、親の責務を果すことをさまたげる第三者に対しては、これを排除する権利となる。親権は、子に対する義務性を根幹とし、第三者に対しては不当な介入を排除する権利性を併せもつと考えるのが、今日における親権解釈の通説だといってよい。
 しかし、家庭は人間の成長、発達の視点からみれば、発達に影響を与えるさまざまな力のなかで、基本的ではあっても、その一つにほかならない。とりわけ今日の社会は、共働きの家庭が増え、核家族化かすすみ、しかも住居の環境は貧しく、あそび場もないといった環境的条件のなかで、家庭の教育力は減少している。そしてそれに代わるものとして、自然的にも文化的にもゆたかな環境のもとで、子ども集団のなかで、専門の保育者による発達の保障が求められている。さらに子どもが学齢期になれば、両親は子どもを学校へ通わせ、その教育を学校と教師にゆだねる。
 この事実を原理的にみれば、保育所や学校は、両親の親権を共同化し、その責務を、専門の保育者・教師に信託したのであり、権利論的視点でみれば、保育所や学校は、家庭の延長だといってよい。保育、教育の専門機関には、家庭で果しえない機能を託されて、親権(親の責務)の代替的行使が期待される。そして今日では父母がその責務を信託するのは、家庭が文化的教育的環境として十分でないという消極的な理由からばかりでなく、子どもの成長にとって、子どもの集団的な活動(集団あそびや集団学習)と、専門家による指導的配慮が、格別に重要だからである。父母は教師や保母の専門性に対して、自らの責務の一部を信託する。こうして親権の共同化としての保育所や学校は、家庭の延長として自分たちひとりひとりのものであると同時に、みんなのもの、公的なものとしてとらえなおされる。いわゆる共同保育所づくりの達動のなかには、この意味で、まさしく私事の組織化としての公教育の今日的原型があるといってよい。公立学校もまた、この精神によってとらえなおされねばならない。
 もとより、子どもの保育と教育の責任は、これをすべて保育所と学校にまかせるわけにはいかない。親権は、その一部を専門家としての保母や教師に信託したのであって、それを放棄したのではない。子どもは、家庭において、保育所や学校において、学校外のさまざまなあそびや活動のなかで、そして社会のなかで育つ。親は教師(保母)と協同で、子どもの発達を保障する責務をもっている。したがって、もし親の期待に反する教育が行なわれていれば、親は教師に要求や批判を出し、お互いの意見を調整して、協同で子どもの成長を保障するというのが、今日の公教育のとらえ方の基本にならねばならない。
 親は、自らその子どもに対する責務を直接的に果すと同時に、子どもに代わってどのような教育を与えるかを選ぶ権利をもっている。このことは今日の国際的常識であり、たとえば世界人権宣言は、その第二六条一項で、教育への権利を規定するとともに、その三項では、「親は、その子供に施さるべき教育の種類を選択するについて優先的の権利を有する」と規定している。
 わが国の現行法制からみれば、親が子どもにどのような教育を受けさせるかの選択の範囲は、公立学校が、学区割をとっているたてまえからみれば、せいぜい私立学校を選ぶ自由に限られているようにみえる。しかし、わたしたちは、学区制に対しても、あるいは学校統廃合問題にしても、これを教育を選ぶ権利の視点からとらえなかすことが必要である。学区制が容認されうるのは、行政当局が、つねに学校格差を是正し、どの学区を選んでも内容的に大差はないという前提がある場合である。その上で通学の使を第一義的に考えて学区制をとるということであって、そこではじめて、学区制は、選ぶ権利と抵触せずに機能する。学校統廃合に関しても、地域の文化的伝統や住民の意思を無視した、行政的プランニングが先行した場合、紛争がおこるのは当然たといわねばならない。
 したがって、行政当局が、もし有名校づくりに加担し、格差是正よりも格差の増大に手をかし、あるいは、教師間に上級下級の格差と差別的賃金体系をもち込むなら、父母は、学校と教師へその責務を信託することによっていったんは留保した学校と教師を選ぶ権利を、あらためて主張する必要もでてこよう。学区割を受け入れ、学校と教師に親の教育の責務を信託するということは、けっして、親の、学校と教師を選ぶ権利の放棄を意味してはいないのであり、その権利は留保されているのだというべきであろう。同時にその権利は子どものためのものであり、子どもに代わっての権利の行使であることは、もはやくり返すまでもない。行政当局は格差解消に努力し、学校は、その教師集団が民主的に組織され、つねに実践と研究を交流し合い、相互に高めあうということが行なわれてはじめて、親は自らの責任の一部を安心して学校に託すことができるのである。
 他方で、しかし、親の要求も、個々の親のエゴイズムではなく、親の要求の集団的検討を通してより賃の商い合意が形成され、個々の要求がみんなの要求に止揚されることを通して、親集団と教師集団の相互要求、相互批判も可能となる。そこに教師集団と父母集団の協議会としてのPTAの本来的機能があるのであり、そのことによって、子ども、青年の人間的発達、学習の権利を、親と教師が協同で保障するのだということを、内実をもって主張することが可能となる。
 そのためには、PTAは、学級PTAが基礎単位であり、かつまた学級父母会での討議がとりわけ重要なものとなる。そこで父母の要求を出しあい、その質を高め、自分の子どものしあわせへの期待を、みんなの子どもの成長への願いに高めることが必要である。PTAには、学童をもつすべての親の参加が望まれ、その活動が、従来のボス支配の具としてのPTAから、自主的な父母集団と教師集団による、教育についての合意の形成の場であり、相互批判と励ましの場になることが、国民の教育権を現実に生かすもっとも確実な道筋の一つだといってよい。

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