学問教育の自由

 明治での天皇制国家において、学問教育の自由は存在しなかった。伊藤博文は、憲法に、学問教育の自由を規定しなかった理由をつぎのようにのべていた。
 「学問ト教育トハ自由ナジト云フコト、普国ノ憲法ニモ明条アリシ。若シ右ノ如ク教育ノ自由ト云フコトヲ明載スルトキハ、必ズ是ョジ百端ノ議論ヲ生ジテ為メ二行政ノ権カハ甚減殺セラルベシ。」
 思想、信条の自由はどうか。明治憲法は、その二八条に信教の自由を認めてはいたが、それは、「安寧秩序ヲ妨ケス及ヒ臣民タルノ義務二背カサル限二於テ」という条件が付けてあった。しかも、国体の弁証にとって不可欠な神道は、「宗教にあらず」とされ、そのことによって神道は実質的に国家宗教になっていた。
 このことは天皇制国家が、疑似宗教国家であることを意味し、精神的価値の根源が天皇に由来することを意味した。そしてそのことは、必然的に、思想、信仰、言論、教育の自由を著しく制約し、異端に対する権力的排除を必然化した。思想が弾圧され、教育が統制され破壊されたのはファシズム下での異常なできごとではなかった。それは、天皇制国家の病理ではなく、むしろ生理であったのである。

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 教育勅語煥発の翌年早々に起った内村鑑三不敬事件と、それに続く「教育と宗教の衝突」問題は、天皇制国家の成立直後に起った最初の異端排除の事件であり、天皇制国家における権力と自由との構造を示すものとして、そして、その後の思想・信条の不自由の歴史を象徴するものとして、きわめて重要な事件であった。
 ここで簡単にこの事件の問題点にふれておこう。内村は、教育勅語への拝礼を拒否して第一高等中学校を追われ、名古屋や熊本においても類似の事件が起った。そして、これらの事件に追い打ちをかけるように井上哲次郎は「教育と宗教の衝突」という論文を発表して、キリスト教が国体に反すると論難した。
 この過程でキリスト教徒が発表した内村擁護論や、井上への批判には、近代国家における権力と宗教の関係が明確にとらえられ、思想、信条の自由が原理的に展開されていたことは、わが国の思想史上、そしてわれわれがわが国の近代史をたどる上において、きわめて重要な思想的遺産といわねばならない。
 因に、内村擁護のために出された神川方義、植村正久等の共同声明には、「皇上は神なり、之に向つて宗数的礼拝を為すべしと云はど足れ人の良心を束縛し、事故の自由を奪はんとするものなり」とあり、金森通倫も、「如何に政府の命と雖も己が主義を破りては是に服従する事能はざるなり」と書いた。
 さらに井上哲次郎に対しても、植村は、「政治上の君主は良心を犯すべからす、上帝の専類せる神聖の区域に侵入すべからず」とのべ、良心の自由と世俗権力の限界を強調した。大西祝も「倫理の主義」は「勅語を楯」に争うべきではなく、「自由の討究」にゆだねるべきであり、「学術宗教の自由」も、「国家の安寧」をもち出して禁じてはならないと主張した。柏本義円の反論は国家主義への痛烈な批判であった。「若し夫国家を以て唯一の中心となし、人の良心も理性も国家に対しては権威なく、唯人を以て国家の奴隷、国家の器械と為す、是れ国家主義か。基倍数固より此の如き主義と相容れず、若し勅語の精神の意義にして此の如きか、是れ非立憲の勅語なり」、「今や思想の自由を妨ぐるものは忠孝の名なり、人の理性を屈抑するものは忠孝の名なり、偽善者の自らを飾るの器具は忠孝の名なり」。
 しかし、天皇制国家には、これらの貴重な発言を許容する「寛容の原理」はなかった。まことに、勅語の発布は、「日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者たることの公然たる宣言」であり、「教育と宗教の衝突」問題は、このことをいよいよ明らかにするものであったといってよい。
 こうしてこの衝突事件は、天皇制と国体の本質を明瞭に示している。天皇は、政治上の長であると同時に精神的領域における権威者であるという天皇制の本質は、それゆえに、精神の領域への権力の不可侵を説くキリスト教と相容れないのである。さらに、そのような天皇制は、その本質において、信条や学問の自由を著しく制約し、異端への権力的排除を必然化することを教えている。
 さて、この衝突事件を経て、教育勅語を頂点とし、国体観念の養成と忠孝一致の修身道徳を中心とする天皇制教育体制は、その基礎を固めていった。その上、学問と教育の区別は、教育の自由をさらに制限する論拠とされた。そしてこの区別の原則は、森有礼文相の主張以来一般のものとなっていった。森は、従来の教育今に学問と教育の区別のないことを批判し、両者の区別を説いて、つぎのようにのべた。
 「夫レ教育トハ他人ノ誘導二由リ智育徳育体育ヲ施スモノニシテ、其関係スル所生トシテ幼年子弟二在リ、蓋シ幼年子弟ハ自分ノ注文ナク専ラ他人ノ指示ヲ受ケテ働クモノトス、学問二至テハ自分選択ヲ以テ学業ヲ専攻スル可ニシテ他人ハ唯其方法ヲ与フルノミ、今其実例ヲ拳グレバ帝国大学ハ学問ノ場所ニシテ中学校小学校ハ教育ノ場所ナジ、特二高等中学校ハ半ハ学問半ハ教育ノ部類二属ス」。
 学問と教育を区別し、教育を国民道徳の形成の場として、そのためには、学問的真理がゆがめられることも許されるとする発想は、ここに端を発しているといえる。学校制度はまた、社会への人材配分の装置であり、社会の秩序を形成する手段でもあったが、学問と教育の区別は学校段階による教育目的の区別と対応していた。森は、各学校をつぎのように性格づけた。
 「小学校尋常中学ハ中等以下ノモノヲ教育スル所ナレハ其教養ノ目的ハ普通実用ノ教育二外ナラサレトモ、高等中学校二至テハ頗ル異リ、之二学フモノハ学科ヲ卒業シテ直チェ実業二親タモ又ハ進ンテ専門ノ学科ヲ修ムルモ、等シク社会上流ノ仲間二人ルヘキ人ナリ、即チ高等中学校ハ上流ノ人ニシテ官吏ナレハ高等官、商業者ナレハ理事者、学者ナレハ学術専攻者ノ如キ、社会多数ノ思想ヲ左右スルニ足ルヘキモノヲ養成スル所ナジ」。
 そして高等中学に続く帝国大学は、「国家ノ須要二応スル学術技芸ヲ教授シ及其菰奥ヲ攻究スルヲ以テ目的」としていたのであり、大学は国家のためにつくす上流の人材をつくるところであった。
 こうして、明治二〇年前後にその基礎を固めた国民教育は、明治末期には教科書が国定になり、修身を筆頭教科として、すべて「勅語ノ趣旨二基」づいて編纂され、さらに、国体論的国民教育論は大逆事件と「南北朝正閏問題」に端を発する「国民道徳運動」を通して定着し、同時に学問と教育の分離を決定づけた。教育は学問的真理に基づくのではなく、国民道徳形成の観点から選択され、そのための真実の歪曲もまた当然視された。すでに森有礼文相以来の「学問と教育の分離」の方針は、こうして国民道徳運勅のなかで再確認された。
 たとえば内村鑑三批判の急先鋒であった井上哲次郎は、正閏問題に際しても、「同じ歴史上の事実を判断研究するにも、勿論二様の態度が在る。一方は事実を事実として、其正邪善悪に拘泥せすに極めて科学的に研究する。之に反して他の一方は、国民道徳の上から事実を判断研究する。即ち国家の為に是非善悪を云ふ事を主眼に置く」。そして、「国定教科書の場合勿論後者に依らねばならぬ事は診する迄も無い事だ」とのべ、国体イデオローグとしての面目を示した。学問と教育の分離は、肇国の神話と万世一系の万古不変の国体イデオロギーを、国民教育を通して注入するための必要な手順であった。国休診的憲法診に立つ上杉慎吉が美濃部達吉の天皇機関説の論難を開始したのもこの頃であった。
 しかし、大正に入ってからは、民本主義を背景に、美濃部説が通説視されていた。教育の領域においても、芸術家や私学関係者を中心に教育の自由を求める動きも高揚した。
 しかし、昭和に入って、自由を圧殺しつつ戦争への道をつき進んだわが国は、国民学校命を中心に挙国一致体制、臨戦体制に向けて教育の再編を計ったが、その第一条には、「国民学校ハ皇国ノ道二期リテ初等普通教育ヲ施シ、国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」とあり、同施行規則第一条には、教育目的に関する留意事項として、
 一 教育二関スル勅語ノ旨趣ヲ奉戴シテ教育ノ全般コ且リ皇国ノ道ヲ修練セシメ特二国体二対スル信念ヲ深カラシムベシ
 三 我ガ国文化ノ特質ヲ明ナラシムルト共ニ、東亜及世界ノ大勢二付テ知・フシメ皇国ノ地位ト使命トノ自覚二基キ、大国民タルノ資質ヲ啓培スルニカムベシとあり、第二条には国民科の目的について、「国民科ハ我ガ国ノ道徳、言語、歴史、国土国勢等二付テ習得セシメ、特二国体ノ精華ヲ明ニシテ国民精神ヲ涵養シ、皇国ノ使命ヲ自覚セシムルヲ以テ要旨トス」とあった。
 大学とても、国家主義の呪縛において例外ではなく、その学問研究も、「国家二須要」の「実学」が求められたが、一九一八年の大学今では、「国家思想ノ涵養二留意スルコト」が加わり、やがて、ファシズム下においては、「大学ハ国家ノ重要ナル学府トシテ、国体ノ本義ヲ体シ」て行なわるべきことが求められ、また、「学問ノ研究ト学生ノ教授トノ間ニハ明確ナル区別ヲ存シ、不適当若シクハ未熟ナル学説ヲ教授スルカ如キコトナキヲ要ス」とされた。教育を国の統制のもとにおくために援用された学問と教育の区別の論理は、やがて学問の自由の根を枯らし、学問をも国の統制のもとに従えるにいたったのである。たとえ社会に自由なくとも、大学にだけは自由が保障さるべきだとする論理すらも通じなくなっていたのである。
 こうして戦前戦中の教育は、国民学校から大学まで、真実は隠され歪められ、子どもや青年の人格は否定され、人間性は奪われていた。そこには人間は存在せず、国家の道具的存在としての国民を鋳型にはめる教化かあったにすぎない。戦争による目本の破滅への道は、学問と教育の破壊の過程を必然的に伴っていたのである。そしてその道は、天皇制の病理ではなく、まさにその本質に由来する必然的帰結であったといわねばならない。

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