教育基本法体制成立の意義

 新憲法と教育基本法は、教育のあり方についての戦前的思惟への反省に立って、教育を国民の義務ではなく権利として規定するとともに、平和と民主主義を根本に据え、真理と正義を希求する人間の育成を新しい教育の目標とし、人間の尊厳に基づく個性の発現をめざすものとなった。
 また、国家と教育の関係も大きく変わり、教育においても学問の自由が尊重され、真理と真実こそが教えられねばならないこと、そして、このような教育の目的を実現させるためには、教育は不当な支配に服することなく、国民に対して直接に責任を負うべきものとしてとらえられ、教育の自主性と自律性が尊重されて、教師は不断の研修を通して子どもの学習権の充足につとめ、国民の信頼に応えるために努力すること、そして、教育行政は、教育の目的が達せられるための条件を整備することにその任務を限定すべきことが定められた。
 こうして、戦後教育改革は、教育勅語を中軸とする教育のあり方から、憲法・教育基本法を中心とする教育のあり方へと大きく転換した。ところで、教育の依拠すべき根本のものが教育勅語から教育基本法に代わったということは、教育目的が家族主義道徳の注入による国民形成から、真理と正義を希求する人間の育成へと変わったということにとどまらず、それまで勅語が占めていた次元そのものを否定して、いわば教育の全構造をかえるということを意味した。

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 教育が勅語に示された天皇の意思に基づいて行なわれるということは、君主が国民の内面的価値に統制的に介入し、国家公認の画一的価値を国民におしつけることに他ならす、そこには、学問と教育の自由、思想、信条の自由、ひろく精神の自由はなきに等しいことを意味していた。戦後、その教育勅語は無効となり、勅令という形式そのものが否定され、教育の具体的あり方は教育基本法と学校教育法、教育委員会読等の法律の形式によって定められることになったことが示すように、教育のあり方は、天皇の意思から国民の意思に基づくものへと変わった。これを勅令主義から法律主義への転換と呼ぶ。この転換は、天皇主権から国民主権への転換の教育面での現われということができる。
 問題はこの転換の意味をどこまで深くとらえるかということである。天皇の命令によってではなく、国民の総意によって教育の基本方針をきめるということは、法律によるものであれば、憲法や教育基本法に反する教育目的や教育内容をこまかく規定し、それを国民におしつけてよいのかという問題も含んでいる。これを別のことばでいえば、合法性と正当性の問題だといい直してもよい。
 そして、重要なことは、憲法と教育基本法の精神は、たとえ合法的であるからといって、教育の自由、精神の自由を奪うことはできないということを、憲法みずから、教育基本法みすがらが示しているという点である。とりわけ教育基本法一〇条が、教育の自律性を保障し、そのための教育行政の責任と権限の限界を明確にしているということは、教育にかかわる問題の立法化には一定の限界があるということを、教育基本法体制自体が指示しているということである。教育における法律主義は、勅令主義からの訣別とともに、教育の自律性の原理をおかしてはならないという立法の自己抑制の原理を内に含んだ原理だという点が重要なのである。
 憲法、教育基本法体制は、教育の自律性の保障と、教育の国民に対する直接責任を求めている。このことと、教育基本法という法律による教育目的の定立は矛盾しないだろうか。わたしたちはここで、憲法と教育基本法の二重の関係をとらえておく必要がある。
 教育基本法は、憲法の理念を受けて、「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきもの」とあるように、教育に憲法の理念の実現を託している。同時に他方で、憲法は国民の教育への権利と教育の自由を、思想、良心の自由と併せて保障している。そして教育基本法一〇条は、教育行政の限界を定め、教育の国家からの自律性の保障を確認したものにほかならない。このことはまた、法律で教育の目的を定めるということには一定の限界があることを、憲法、教育基本法の法体系みすからが示していることを意味している。立法政策による教育目的の定立は、時の政治権力による教育介入をまねく恐れがあるからである。
 さて、このことと、教育基本法が教育の理念や目的を明示していることとは矛盾しないだろうか。憲法制定時に、すでにこの困難と、法的規定の限界が意識されていた。当時の文相田中耕太郎は、憲法に教育に関する一章をもうけるべきだという意見に対し、「憲法というものは元来政治的の法律であり、教育が問題にされる場合でもやはり政治の面から問題となるのであって、この憲法の性質上道徳及び教育の原理というようなものは憲法の中に入るべきものではない」と答え、その主張をしりぞけた。田中耕太郎は、後年の著書でも、「私は個人的には、国家が法律を以て間然するところのない教育の目的を明示することは不可能にちかい」ものであり、「教育的活動がその本質において個人の創意にもとづく文化的性質のものであり、本質において法の干与の外にあることを考えるときに、憲法および他の法令による教育の規制には一定の限度があることを認めざるをえない」とのべている。これを田中耕太郎の教育の独立論と併せて考えるとき、この主張は理由のあることだといわねばならない。教育は「不当な行政的権力的支配に服せしめらるべきではない。それは教育者自身が不稽独立の精神を以て自主的に遂行さるべきものである」。それゆえに、教育の自律性が保障されるためには、法律による教育の規定には、おのずから一定の限度があるとする見解は正論だといえる。
 それでは、憲法と教育基本法は、この限度を越えて教育に介入しているかを改めて考えると、そこで提示されているのは、人類がたたかいを通して、普遍的な原理として確認してきた基本的人権、主権在民の理念であり、わが国民が、多くの犠牲のうえに国民的な願いとして提示した平和への希求と戦争放棄の理念である。それはいずれも、内容的には未来へと聞かれた普遍であり、その内容は、今後の歴史のなかでますます高められ、ゆたかになることを予想し、それへの期待を含んだ原理である。その原理を否定する政治に対しては、この憲法は不寛容なのである。
 しかもこの理想の実現のためには、思想・良心の自由とともに学問・教育の自由が保障されることを不可欠のものとする。平和を守り民主主義を実現するためには創造的探求的精神の活動を保障する学問、教育の自由が不可欠だからである。
 こうして、憲法に必要以上の教育条項を規定せず、教育基本法一〇条で教育行政の責任と限界を規定することによって、教育の国家権力からの自律性を保障する規定を定めたのである。
 これは、戦前の勅令主義に代わる法律主義の原理にたって、天皇の名のもとでの政治的恣意による教育統制を禁じ、教育が国民の意思に基づいて行なわれるべきだという原理の転換を示すと同時に、さらにその法律による手続上の合法性をたてに、教育の自律性を奪う危険性についても、すでに正当な配慮を示し、教育の自律性と教育の国民に対する直接の責任を明らかにする視点を内包しているといってよい。これは憲法・教育基本法体制が、権力統制をチェックするフィードバックの視点をその体系のなかにもっていることを示すものだといえよう。法律主義原則は、教育の自律性の原則に従属する原理として位置づけられていることに注目したい。教育の自律性とは、教育は独自の価値と論理をもつものであり、その領域に国家は権力的に介入し、統制を加えてはならないという原則である。したがって、その根拠としての教育固有の価値ないし論理を承認するかどうかが基本的な問題となる。
 教育という事柄の本質的属性を抑えつけるのではなく、それをさらに発展させるためには、どのような条件が必要であり、何か法的に保障さるべきであるか、ここに今日の教育行政と教育法の根本問題があるのであり、教育の本質についての洞察と、教育固有の価値と法則への着眼点を含んではじめて、行政法の一応用分野としてではない、固有の意味での教育法体系が成立する客観的根拠があるといえよう。この意味では、戦前の教育勅語体制のもとでは、固有の意味での教育的価値の観点は成立しえず、したがって、固有の意味での教育法の存在する余地はなかったのだといえる。
 憲法、教育基本法を中心とする戦後の教育改革は、教育勅語体制を、その原理において根底から批判するものであった。そして、国家主義的、軍国主義的人間像に対して、民主主義、平和主義的人間像が対置され、教育は真理を愛し自主性を尊重する人間の育成を目指すものとされた。さらに、教育行政の基本原理として、教育の官僚統制の撤廃、国家権力の教育内容への不介入の原則、教師の創造的教育を保障するための教育の自律性の原則等が確認された。そして、これらの改革を支えた主権在民と国民の権利としての教育の思想は、天皇主権のもとでの、臣民の義務としての教育の思想とは本質的に異なるものであった。
 さらに、教育の理念やその仕組の基本を示す教育基本法が、国会において国民の代表によって討議され、立法化されたということは、教育における勅令主義との訣別を意味するものであり、そのことは、教育の目的が、教育勅語的なものから教育基本法に示されたものへと変化したということにとどまらす、教育の構造、そのあり方全体の変化を意味していた。それは、天皇主権から国民主権への転換に照応するものであり、教育基本法体制は、かつて、教育において勅語が占めていた次元それ自体を否定するものであった。その意味で、勅語体制から基本法体制への転換は、まさに、教育のコンステイテューション、即ち、その仕組や体質の転換を意味したのである。このような意味での教育の根本を定める教育基本法は、その本来的意味において教育の憲法に他ならない。
 かくして、教育基本法体制は、教育勅語体制と、まさにその仕組において、構造的に異なるものであり、後者から前者への変化は、単に、教育の理想、そのめざす人間像において相容れないだけではなく、教育基本法体制は、まさに、勅語の存在そのものを否定するのであり、したがって、内容において民主的な勅語ならばいいという論議の余地を、原理的に拒否するものであった。勅令主義から法律主義への変化のもつ思想的意味はまさしくここにあった。そして、このことは思想を国体の粋から解放し、教育を天皇制教学から解放し、それらを国民の自主性と創造性にゆだねることを必然的に導くものであった。
 教育基本法は、その価値志向と、その価値を実現する手段ないしそれを保障するための法的、行政的機構において、戦前の伝統から訣別するものであったのである。

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