戦後日本での法と教育の特殊性

 戦後の教育現実の展開過程は、憲法理念の一定の定着と空洞化という、相反する現実の進行と並行した関係にあり、教育基本法の理念も、逆でコースの過程で空洞化ないし実質的改正を余儀なくされている反面、その理念は、国民のなかに定着し、国民教育運動と国民教育権もまた、広い基盤をもって着実に国民のものとなってきている。
 このような憲法と国民と政府の関係は、戦後改革と憲法の成立過程にすでに暗示されるものであった。憲法が体制の側の反撥と国民の側の共感の中で成立したということは、本来、支配体制とその秩序を保障するはずの憲法の性格からすれば、きわめて特異なことであった。そして、憲法が、現レジームの基本法であるにもかかわらず、その改正を意図する勢力が、現レジームを指導する勢力であり、逆に政府に批判的な国民は憲法を守り育てようとしているというところに現代日本の法的現実の最も大きな特徴の一つがあるといえよう。

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 教育の領域においても、教育基本法体制の推移と教育と国家の関係の変化が示しているように、国民の教有権と教育の自律性の原則を保障する教有基本法のもとで、その法解釈と運用に、戦前的思惟が残っており、それが現代福祉国家論のもとで再動員され、かつての滅私奉公が現代公共福祉論と癒着して、国民の権利としての教育を国家主義的公教育にとりこもうとしているところに、今日のわが国における国家と教育にかかわるイデオロギー上の特徴があるといってよい。
 そして、政府、文部省、教育委員会を中心にすすめられてきた、なしくずし改憲と教育基本法違反の現実のなかで、教育と法をめぐる関係に特筆すべき特徴が示されることになる。すでにみたように、憲法、教育基本法の精神に反する下位法の立法により、教育法体系に矛盾、対立がもちこまれることになった。教育の中立性二法や地教行法、さらに指導要領の法的拘束力の付与、教頭法制化等は、いずれも、上位法としての教育基本法に実質的に反するものだからである。しかもその際、教育基本法は法の性格としては普通法と同じだという解釈に立ち、後法の定着化を法治主義の名のもとに進めているのである。
 第二に、ある法案が、国民世論と議会での反対で否定された場合にも、その意図は、文部省令の改正を通して、あるいは行政指導によって、実質的には法制定と同一の効果をあげているという、もう一つの特徴がある。ここでは法治主義原則そのものも御都合次第だということがよく示されている。
 たとえば、一九五六年、政府、文部省は教育内容統制をはかるべく教科書法案を国会に上程したが、国会内外の激しい批判を浴びて流産した。しかし、その後、行政措置によって、その法案で意図した教科書検定機構の改変、検定規準の改訂、指導要領の法的拘束力の付与等の処置を通して、その当初の意図を実現させていった。また一九七三年に成立した教頭法などは、すでに一九五七年に省分化によって、まず既成事実をつくり、やがて法律化するという手続をとっている。今回の主任制の省令化にも、それと同じパターンがみられる。
 第三の特徴は、行政権の乱用による統制の強化である。たとえば、一九六一年から強行された全国中学校の学カテスト一斉・悉皆調査の実施は、文部省の正当な調査権を越える越権行為であり、教育の内容への不当な介入だという見方は、最高裁判決のあとでも、十分に根拠をもっている。
 最高裁自身、教育における地方自治の原則を教育行政の根本原則の一つだとのべ、文部省は学力調査を自ら行なう権限はなくいそれを地方教育委員会に強制する権能ももたないとした上で、かの学テは文部省の解釈にかかわらず、それは地方教育委員会の自主的判断に基づいて行なわれたものとみなすことによって学テを手続的に合法だとした誠に苦しい解釈にも、文部省の中央統制的行政のあり方に問題があったことが示唆されている。
 また、文部省、教育委員会で推められている教員研修は、教師としての真の力量を高めることに役立たす、教師の教育観と教育実践に枠をはめるものでしかない。他方で、教師の自主的研修のうち、たとえば、民間教育研究団体やサークル、あるいは日教組教研等に対しては、それを教師に必要な研修の一部と認めないのみか、自主教研に校長の反対を押し切って参加したという理由で懲戒免職にしたり、賃金カットをしたりというあらわな強圧さえまれではなく、勤務評定でマイナスに評価され、配置転換や昇給にも響くのは当然のこととなっている。
 さらに、いわゆる教育の正常化の名のもとに、教育行政当局の陰湿な指導による組合脱退、分裂工作がすすめられ、教師の自由な研究と創造的な実践の運動に厳しい圧力が加えられている。
 第四に、このような法的、行政的現実のなかで、教育をめぐる紛争は、裁判で争われる事件が多く、すでに多くの判例が蓄積されてきた。しかし、すでにみたように同質の事件に対する裁判所の判断が異なり、同一の事件に対しても、下級審と上級審で判断が分れ、著しい法的不安定さを示している。そのなかにあって、一般的傾向としては下級審ほど憲法と教育基本法により忠実な判断を示し、上級審に行くにつれて反動性が増すという、司法一般の状況が、ここでも示されている。
 しかし、もう一つの傾向としては、弁護団側の教育の本質とその条理をふまえての弁論の展開と、それを教育法解釈に反映させる努力に比例して、裁判所の教育と法についての認識も深まり、教育法を行政法の応用部門とする安易な考えから脱して、教育の本質と条理を少なくともことはとして問題にする傾向がみえてきたことは注目してよい。
 教師の教育実践と国民の教育運動が、教育認識の一般的水準をかえ、教育研究者と法学者の協同によって、教育の本質に即した条理を法解釈に反映させる、総じて国民の教育権論を具体的に構築する努力が、旧来の法学界の通説の再検討をせまり、憲法の教育条項の新たな解釈を新たな通説の地位におしあげているのであり、最高裁の学テ判決も、憲法判断としては、国民の教育権論を無視しえず、国民と子どもの学習推を軸に、教育にかかわる関係者の責任と権能を総合的に運関づけるという方法をとったことは、少なくとも国民の教育推論と同じ土俵に立ったことを意味し、ここにも、国民教育の運動と国民の教育推論の一定の反映を見出すことができるのである。旧来の国民の法意識からすれば理解困難なことだが、法の解釈は、象牙の塔の学界でつくられ、最高裁の判例のなかに確定するものだとする通念と追って、生きた法の新しい展開は、現実を切り開く新しい実践と連動のなかに胚胎した新たな理念を法解釈にとりこむなかで、そして、法廷でのたたかいを通して、徐々に展開していくのである。
 公害反対連動や教育運動等を合む住民連動のなかで、伝統的自治の原理を軸とする官治的行政論を、人権と自治の原理に基づいて転換させる新たな視座構造が構築されてきたが、教育運動もまた、教育条理論の展開の上に、行政法から自律した教育法の体系化をめざしつつあり、これは人権思想を真に国民に根づかせる拠点をつくり出すことによって教育行政法の視座の転換を求めるにとどまらず、憲法意識と憲法理論にもその深いところからの転換を求めるものだといえよう。

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