障害児に関する就学義務猶予、免除

 日本国憲法下においても、義務教育が、親の就学義務すなわち、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を伴う形の教育制度として存続している。しかし、もはや戦前の明治憲法下のそれとは同じでなく、人権保障をふまえて原理的転換を遂げていることが十分に留意されなければならない。ところが教育界において、わけても教育行政当局筋において、この点の認識がいまだ不十分であることが、こんにちの日本の教育問題をめぐる好ましからざる紛争的状況のなかに鮮明に現われてきているようなのである。国民の教育の自由という近代的な教育人権の弱さにつけ入って唱えられている国家の教育権説も大きな問題であるが、ここでは、障害児にかんする就学義務猶予、免除のしくみをめぐる問題を取りあげていきたい。

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 毎年一月末の段階で学齢児童にたいする学籍決定、就学校指定が市町村、区教委によって行なわれるわけだが、その際、どこの学校にも入れないと判断された身体不自由児や知的障害児について、教委側の誘導によって親からの願い出にもとづく就学義務の免除ないし猶予という措置が採られ、その結果として例年約二万人のこれら障害児が学校教育からはずされている。たしかに学校教育法施行規則四二条前段には、「学齢児童で、学校教育法第二十三条に掲げる事由(就学困難と認められる者)があるときは、その保護者は、就学義務の猶予又は免除を市町村の教育委員会に願い出なければならない。」と書かれている。そして現実の行政運用としても、障害児の親には猶予、免除願い出の義務が有るものと解され、所によっては「就学猶予、免除願」という文書を親に出させているようである。しかしそれではまさに戦前の国家的義務教育下のしくみそのままであって、人権をふまえた義務教育への原理的転換が忘れられている、と言わなければならない。
 戦前、明治憲法下にあっては、子どもは忠良な臣民になるべき者として、天皇の国家が決める「教育をうける義務」を負っていた。忠良な臣民として生きることが「臣民ノ幸福ヲ増進スル」ことだと考えられ、明治憲法九条にもとづく勅令によって、この子女臣民の「教育をうける義務」を実現させるために親に就学義務(子を就学させる義務)が課されたのであった。そして、天皇制教育にかかわるこの臣民の義務が、兵役、納税とならぶ臣民の三大義務の一つに数えられていたことは、周知のとおりである。ところがこのしくみの下では、重度の障害児は、教育をうけても忠良なる臣民にはなれない者として、義務教育の対象からはずされることになる。そしてそれは、そのような障害児を持ってしまった親が、臣民として天皇の国家にたいし「まことに申し訳ございません」と詫びつつ、その子の就学を猶予、免除していただくよう願い出る、という方式による。この場合にも、親の就学義務の猶予、免除という形式はありうるが、原理的に、教育をうける義務を負うはすの子の就学そのものを遠慮するわけであるから、子の「就学猶予、免除願」のほうが端的であろう。現に明治二三年の小学校令二一条一項では「貧窮ノ為又ハ児童ノ疾病ノ為共催已ムヲ得ザル事故ノ為学齢児童ヲ就学セシムルコト能ハザルトキハ学齢児童ヲ保護スベキ者ハ就学ノ猶予又ハ免除ヲ市町村長二申立スベシ。」と書かれていた。明治三三年の小学校令三三条になると、親の就学義務の猶予、免除の形を採ったかわりに、障害児の人格を無視した言葉が使われた。
 これに対して、戦後の日本国憲法二六条一項によれば、子どもが「教育を受ける」ことは、もはや義務ではなく、国民の人権として国家にたいする「権利」である。親の就学義務も、子女国民の人権としての教育をうける権利を保障する手だての一つとして、国家が法律にもとづいて課するものにほかならない。それとともに、明治憲法下とは異なり、子女国民の教育をうける権利を積極的に保障していくことが国家の責務であるとされた以上、「国家の教育条件整備義務」が憲法上原理的に予定されているものと解されよう。憲法自身「義務教育の無償」を宣言しているなかに、その趣旨が込められていると解されるのであって、学校教育法では、親の就学義務とならんで、市町村の小・中学校設置義務および都道府県の盲・ろう・養護学校設置義務を定めているのである。障害児がまさに教育をうける権利という人権の主体である以上、国や自治体にはできるだけその就学保障を行なう義務が、憲法上原理的に予定されており、学校教育法の解釈運用上もそれをふまえてなされるべきであろう。
 障害児の親たちは、不幸にして障害を持つ子なればこそ学校教育の力によって人間としての成長発達をと切望しているのであるから、子どもの教育をうける人権の主張として国家にたいして障害児の就学保障の要求を強く出していけるはすなのであって、みすがら就学義務の猶予・免除を願い出る義務を負わされるいわれは毛頭ないものと言わなければならない。もっとも、国や自治体による条件整備がおくれているためどうしても就学できないという障害児について、親が就学義務違反で処罰されることのないよう、もっぱら学校教育法九一条の罰則の適用をストップさせておくという意味で「就学義務の猶予・免除」を願い出る権利が親に認められてもよいであろう。しかしそれはもはや実質的意味があまり無いしくみであり、まして、障害児について親の就学義務が猶予・免除されても、国家の就学保障義務までが当然に無くなることはないのみか、むしろそれだけが強く残って障害児国民の側からの教育をうける人権の主張に応えなければならないことになるはずなのである。障害児教育の研究者から、権利には猶予も免除もありえないと指摘されているとおり、日本国憲法下の国家にはもはや、障害児の権利としての就学を勝手に猶予、免除したりする権能は原理的に無いはずであろう。
 前記の学校教育法施行規則四二条が、障害児の就学を保障しなくてもよいという意味で親に就学義務猶予、免除を願い出る義務を課している条項だとすると、それは違法無効だと言うほかはない。法律条項たる学校教育法二三条は、学齢児童で「就学困難と認められる者の保護者に対しては、市町村の教育委員会は、(願い出手続)により、(就学)義務を猶予又は免除することができる。」と規定しているのであって、これを教育をうける人権保障に即して解するとき、施行規則はそれに違反することになるからである。
 教育をうけるなとは、生きるなということではないか、教育をうけるに値しない人間など、一人だっているものか、という叫びに示されているとおり、障害児は治療と合わせて優れた教育をうけることによって少しずつでも障害を克服しつつ人間らしい成長発達ができれば、それによって生命力も増してくるのであって、のちに論する教育人権論に立って教育をうける権利をすべての人の人間的発達権であると解するならば、障害児こそその最たる人権主体にほかならないと考えられるのである。
 以上に見られるとおり、日本国憲法下の義務教育は、いぜんとして形のうえでは父母国民の就学義務を主にしているとはいえ、実質的、原理的には、子女国民の教育をうける人権に対応して国家が無償その他の条件整備義務を負う教育制度のことだと理解するのが正しい。親の就学義務や義務教育の概念は、子どもの教育をうける人権をふまえて根本的に再吟味されてよいであろう。そして、国民の教育をうける権利を保障するために国家がなるべく公費負担その他の条件整備義務を負うべき教育制度を公教育と呼ぶとしたら、義務教育は国家の義務が最も強いその一部分にすぎず、公教育には高校、大学教育そして社会教育もふくまれることになろう。

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