子どもの私生活の自由とプライバシー

 私生活の自由とは、人間が自由独立な個人として生きていることの証しとして、自分が自由に決めうる個人的な生活の仕方つまり私生活について、国家や他人から強制ないし介入を受けないという人権である。日本国憲法一三条では、「すべて国民は、個人として尊重される。幸福追求に対する国民の権利」という表現をしている。
 でとくに、私生活上の事柄(私事)について国家や他人からのぞかれたり公表されたりしないという人権、権利がプライバシーの権利とよばれる。また、私生活をのぞかれて公表されると、人間としての名誉を傷つけられるので、名誉権もプライバシー権に連なっている。これらについて国連の世界人権宣言一ニ条では、「何人も、その私事、家族に対する専断的な干渉又はその名誉及び信用に対する攻撃を受けることはない。何人も、この干渉又は攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。」と書いている。ところが日本では、長い間封建的身分割や共同体的規律が個人を呑みこんでいたため、社会や家庭において各人のプライバシーを尊重し合うという人権意識が今なお生成途上にあるのにとどまるようである。
 教育の場で子ども一人ひとりの私生活の自由やプライバシーの権利が保障されることは、現実にはなかなかむずかしいようであるが、それは子どもを独立の人間として扱うすぐれた教育を行なっていくための土台の一角をなすであろう。そして子どもを、プライバシーをもった独立の人間として教育上扱っていくことは、たんに子どもも現に生きている一個の人間であるからというだけでなく、「個人の価値をたつとび、自主的精神に充ちた」人間として子どもを教育していくために必要なのである。国連の児童権利宣言二条では、「児童は、自由と尊厳の状態の下で、道徳的、精神的および社会的に成長することができるための機会および便益を、法律その他の手段によって与えられなければならない。」と定められている。そこで、子どものプライバシーを尊重する教育は、学習権保障の見地から重視されてよいはずだが、ここでは、私生活の自由、プライバシー権、名誉権という一般人権をふまえて教育しようとする場合の問題点を論じていきたい。それはとりわけ、学校における子どもの生活指導の諸局面にかかわり、その先端は教育的懲戒にも連なってかなりシリアスな問題状況を生じているように見られる。

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 ホームルーム、給食、クラブ活動、進路指導、学校行事などの生活指導は、教科教育活動とちがって、より直接に学校における子どもの人間生活にかんする教育指導活動である。それは家庭教育ともちがって、同世代の子どもの集団生活にかかわる指導であって、学校教育によって人間としての全面発達を期待する学習権保障にとって貴重な働きだと見られる。しかし、子どもの生活行動のしかたに直接ふれる教育指導であるから、その教育的専門性が低く、ゆきすぎがあったときには、子どもの私生活の自由やプライバシー権の侵害にいたりやすい教育分野であることが十分に意識されていなくてはならない。
 埼玉県大井町立O中学校では、生徒心得に、男子の頭髪は三分刈り以下にしよう。と定められているのに基づいて、長い間男生徒はみな坊主刈りにされてきた。ところが一九七三年度の人学予定生徒のなかには、「カッコ悪いし、よそで自由にしているのに坊主頭を強制されるのはいやだ」と言いだす子がかなり出て、三月中に父母のなかからも「坊主刈りを強制しないで自由選択にしてもらいたい」という申入れが学校になされたのであったが、同校校長は職員会議でも一致した教育方針であるとしてゆずらなかった。そこで約二〇人が「中学生の頭髪問題について考える父母の会」を結成、新入生との話合い、その父母へのアンケート調査、会報の発行、教育委員会への反対署名提出など、活発な運動を行なうにいたった。四月早々に、教育委員会会議室で教育委員長の司会による「中学生頭髪問題に開する協議会」が開かれ、O中校長、同PTA正副会長、父母の会代表三名が出席したが、話合いは平行線に終わった。両見解は主につぎのようであった。
 学校側が拳げる頭髪規制の理由 ・O中の伝統ある校風。・小学生とは違うという心機一転のチャンス。・スポーツに便利。・髪形を自由にすると生活指導上困難。・ひどい長髪は見苦しい。
 父母の会側の反対主張・嫌がる子どもに坊主刈りを強いると自主的意欲をなくす危険がある。・公立中学は義務教育で学校選択の余地がないから強制すべきでない。・家庭で中学生らしい頭髪にするよう注意できるし、坊ちゃん刈りでもスポーツできる。・坊ちゃん刈り長髪のほうがカッコがよいし、子どもの個性に合わせられる。
 四月九日の入学式いらい、新入生男子一三一人のうち一三人が坊ちゃん刈り長髪のまま入学したのに対して、学校側は生徒心得にまず従うようにさせるという方針で教育上の取扱いを進めたため、父母三名が「日本弁護士連合会人権擁護委員会」に調査の申立てを行なうにいたった。同委員会は七三年九月以降、関係者からの事情聴取を中心に調査を連めた。そしてまとめられた部会報告書では、学校側の「人権侵害を疑わしめる事実」として、長髪生徒の学級委員任命と体育クラブ加入とを拒否したこと、学年主任教師が長髪生徒を集めて「学校のきまりを守らないと内申書がCの評価になる」と発言したこと、を挙げたほか、つぎのようにのべて、O中の「生徒心得」による坊主刈り指示は違憲・違法だと結論している。
 「頭髪は、身体の一部であり、髪形は人格の象徴であるから、これを規制することは、憲法上保障された基本的人権である人身の自由と表現の自由を制約することになる。生徒の頭髪を規制するには、教育上規制を正当づける合理的理由即ちこれを規制しない場合における学校秩序ないし教育過程に対する明白かつ実体上の侵害の危険が現存しなければならない。学校側の挙げる規制理由は何れも髪形と直接関連する理由でないから規制を正当づける合理的な理由とみることはできない。」
 一九七四年一月一九日、日本弁護士連合会はO中校長に対し、つぎのとおり頭髪規制条項の削除などを盛った「勧告書」を送付するにいたった。そしてO中では、一月二一日、生徒心得の該当条項を改正し、坊主刈りの指示を撒回した。
 「勧告書  頭髪は身体の一部であり、髪形の自由は、表現の自由、人身の自由として、憲法二一条、三一条の保障するところである。しかるにO中学校においては、合理的理由なくして、生徒心得により、男子の頭髪を三分刈り以下に規制し、長髪(坊ちゃん刈り)の生徒に対して、頭髪を三分刈り以下にするよう強制し、その基本的人権を侵害した事実が認められるのは真に遺憾である。よって速やか生徒心得のうち、男子の頭髪を三分刈り以下に規制する条項を削除するか、又はこれを適当に改正し、再び頭髪の規制とその強制によって、生徒の基本的人権を侵害することのないよう遺切な措置をとるべきである。右勧告する。」
 児童・生徒の髪形がどうあるのが学校教育・挙習上のぞましいかは、各学校ごとに、教師・父母・子どもたちの間で、よく話合い討論していくべき問題であって、そこにおいて教師側の生活指導的な見解表明が十分になされてよいであろう。そして積極的にしろ消極的にしろ、子ども・父母の全体的な同意が有る状態ならば、髪形についてその学校としての一定の決まりを定めることができ、実際にそれは実行されていくであろう。しかし、たとえ一家庭でも髪形規制に反対しつづけるならば、その家庭の子に一定の髪形を学校が強いることは、私生活の自由という人権の侵害問題を生するものと考えられる。たしかに頭髪は身体の一部であるから、どう謁見するかは本質的に各人の私生活の自由に属し、刑務所内の受刑者に対する詰剃のように物理的な強制でなくても、学校の決まりとして坊主刈りを強いることは、生活指導の域を越え出て人権侵害の問題を生ずるであろう。O中学校では、坊主刈りの決まりが長い間強い反対者なく全体的同意を得て慣習法的に成り立ちえてきたことをあたかも当然の法規のごとくに錯覚したように見られるが、それはそもそも坊主刈りの頭髪規制にかんする人権の意識が十分でなかったことに起因していたのではないであろうか。
 近年、制服の決まりに対しても生徒たちから服装自由化の要求が強く出されるようになっている。たしかに服装も、各人の私生活の自由・プライバシーの領域に有る問題である。ただし、身体の一部である髪形に比べれば、服装の人権性は相対的に弱い。そして、生徒の服装について学校がある種の決まりをつくる教育的理由が、髪形とはちがい、服装が華美になって家庭の経済力のちがいが校内に持ち込まれ学習的雰囲気が失われるのを防ぐ、というような点に有りうる。事実この点から大多数の父母が制服を支持しているようであるが、この点は生徒だちからも自主的な納得が得られる可能性が有るから、学校教師は生活指導によってのぞましい服装上の決まりをつくり出すように努めるべきであろう。校内の服装は生徒たちの学習生活の一環として、教師からの生活指導をうける理由があり、生活指導自体が私生活の自由の侵害になるわけではない。ところが、生活指導的見地に立った場合に、制服にはかえって、不衛生・非活動的という難点が見出されるし、むしろ校内での服装選択という人権行使について各生徒が考えていくように指導できることを評価して、生徒の希望を組み入れた、標準服制とし自由服にともなう若干の条件的ルールを定めること、などが浮び上ってくるのではなかろうか。
 小学校の給食で子どもの偏食を直そうという生活指導に心がけている先生たちは、たいへん苦労している。がんらい各家庭が主導権をもっている子どもの食生活であるから、学校給食は、どこまで子どもの食生活に踏みこんでゆけるのだろうかという疑問を感じながら、子どもの健康で全面的な成長をのぞむ教育的立場から、学校給食を行なう以上はそこで生活指導に努めようというのである。新聞社のルポルタージュによれば、牛乳を飲めない子に毎日少しずつ目標を決め、みんなで励ましながらついに飲めるようにさせた、というのは成功例であるが、肉をどうしても食べない子に残り肉を持たせて放課後まで教室に立たせたが、その子はハンカチに肉をかくすようになり、それが見つかって先生の命をうけた数人がスプーンで肉を口の中に押し込んだが結局その子は逃げ出してしまった、という失敗例がある。食事のとり方も各人の私生活の自由・プライバシーに属する問題であるから、身体強制にまでわたれば明らかに人権侵害である。のみならす、偏食是正のためのつぎのようなやり方すら問題になったという。
「三角食べというのがある。学校給食のとき、牛乳、パン、おかずの順に繰り返して食べる。手が三角形を描くようにして食べると、三品を同時に食べ終るようになる、というのだ。」「三角食べを最初にやり出したといわれる東京都でも、食べるという個人的行為を、一律に強制するのは、人権問題という声が強まり、いまでは、都教委の給食指導の手引から削除されている。」
 さらにこんにち、給食食品の安全性に疑問をもつ親がわが子の給食を辞退して弁当を持参させるという態度をとる例が有る。食事にかんする私生活の自由が基本に有る以上、給食内容の安全性や栄養性などについて十分な条件整備のなされていることが学校給食が適法に成り立つ前提要件なのであって、そこに合理的な疑いが生ずるときには、給食拒否権や捕食権の行使もありうるであろう。
 生活指導の別のテーマとして、遅刻が多い生徒に注意をすると、「遅刻で損するのは自分であって他人に迷惑をかけなければ放っておいてもらいたい」と答える者があるという。ここには、私生活の自由の一定の意識が窺われるし、時析の遅刻にはプライバシーに深くかかわる原因もあろう。しかし、多い遅刻は部分的な欠席にほかならず、本人の学習権実現にとってもいろいろなマイナスを意味するから、教師が生活指導のテーマとして取りあげてよい理由がある。くり返しになるが、私生活・プライバシーの領域についても生活指導はありうるのであって、私生活面の指導がすべて私生活の自由やプライバシー権の侵害になるわけではないのである。

戦後改革における人権保障と教育のかかわり/ 障害児に関する就学義務猶予、免除/ 国公立学校における特別権力関係/ 私学における人権保障の適用/ 教育に関わる一般人権と教育人権との区別/ 教育に固有な人権としての教育人権/ 子ども達の生命、身体権について/ 学校施設での環境の悪さによる人命事故/ 教育活動条件の悪さによる自身事故/ 人身事故を招いている体罰/ 子どもの健康権と学校給食/ 子どもの私生活の自由とプライバシー/ 学校活動と家庭プライバシー/ 公教育における思想良心の自由/ 愛国教育と思想良心の自由/ 学生生徒の政治活動の自由と校内教育の秩序/ 平等権と家庭科の女子必修問題/ 私生活の自由と教職員の服務規則/ 思想良心の自由と教育員人事/ 教師の政治活動の自由とその制約/ 教職員の休息権/ 教職員の労働基本権/ 子どもの教育をうける権利/ 能力に応じて教育を受ける権利/ 学習権と社会教育/ わが子の教育に関する親の選択の自由/ 文化を担う国民の教育参加の自由/ 私学教育の自由と公費助成/ 教師の教育権の複合的性格/ 学問の自由と教師の教育研究発表の自由/ 教師の教育の自由と子どもの学習権/ 教育界における人権保障方式/

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