学生生徒の政治活動の自由と校内教育の秩序

 「大学の学生は、その年齢等からみて、一個の社会人として行動しうる面を有する者であり、政治的活動の自由はこのような社会人としての学生についても重要視されるべき法益であることは、いうまでもない」。これは、昭和女子大事件にかんする一九七四年の最高裁判決の一文である。これにたいして、高校生以下にあっては未成年者なので、そのゆえに政治活動の自由を認めない考え方が強い。一九六九年一〇月三一日に文部省が公にした「高等学校における政治的教養と政治活動について」という文書によれば、「生徒は未成年者であり、参政権が与えられていないことなどからも明らかであるように、国家・社会としては未成年者が政治的活動を、むしろ行なわないよう要請しているともいえる」。そして「政治的教養の教育は、生徒が一般に成人とは異なって、選挙権などの参政権を制限されており、また、将来、国家・社会の有為な形成者になるための教育を受けつつある立場にあることを前提として行なうこと」とされる。しかしこのような未成年者論で生徒の政治活動の権利を全面否定するとしたら、それは政治活動というものを狭く考えすぎていると言わなくてはならない。

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 たしかに、議会政治に制度的に参加するための選挙権は現行法制上は未成年者に与えられていない。しかし国民の政治活動とは、選挙権の行使や選挙運動もさることながら、よりひろく憲法二一条一項にいう「集会、結社及び言論、その他一切の表現の自由」の行使を指しているのであって、集会、デモ行進、署名運動、ビラまきなどに参加する政治的表現の自由は、未成年者だからといってとうてい全面否定はできないところであろう。その政治活動の具体的形態はともかく、未成年者も現社会に生きる人間であり、政治問題に問し表現活動を行なうことは人間としての生活の一部に当りうるからである。
 とくに現代の子どもたちの生活には、一般の通念をこえて、政治をめぐる社会的動きがかなり深く入りこんでしまっており、子どもの生活を政治から隔離することなどは不可能になっている。そして生徒たちの政治的関心に応じた情報の入手も、学校教育やマスコミだけからでは十分とは言えず、集会などの政治的表現活動への参加において貴重なものが得られるということも全く否定はできまい。これは一般成人にとってそうなのであって、政治活動は常に生きた政治学習の機会であるという意味をもっているが、このことは未成年生徒にとっても基本的に同様であり、とくに校内での政治的表現活動は生徒にとってより身近なものであろう。たとえば、社会科学研究会のような生徒サークルが、政治問題にかんする検討の結果を学校内で発表・配布したりすることは、生きた政治学習であると同時に校内政治活動でもあろう。政治活動と学習活動とはどこかで区切りをつけておくべきであるが、こんにちの政治活動は生徒たちの生活から隔絶したものでないどころか学習生活とかなりふれ合うことになりうるものである。
 もっともそれだけに、生徒たちの政治活動は学校教師による生活指導を十分に受けてしかるべきと考えられるのであって、後述するとおりであるが、未成年生徒にも政治活動の自由をけっして全面否定しえないことは確認されている必要があろう。
 文部省文書はこの点について言う。「生徒が学校内に政治的な団体や組織を結成することや、学校の構内で政治的な文書の掲示や配布、集会の開催などの政治的活動を行なうことは、教育上望ましくないばかりでなく、特に教育の揚が政治的に中立であることが要請されていること、他の生徒に与える影響および学校施設の管理の面等から教育に支障があるので、学校がこれを制限、禁止するのは当然であること」。
 学生・生徒の政治活動をなんらか規制するといっても、物理的理由に出る場合と精神的理由にもとづく場合とは分けて考えなくてはならない。学生・生徒の校内における集会・デモ行進などの政治活動が、それに伴う騒音や施設の支配・損傷などで物理的に教育・研究条件に障害をもたらすことを防止するために、施設使用面での調整的な許可制などのルールをつくることは、およそ校内活動一般に伴う内在的制約として認めなければならないであろう。これは、他の学生、生徒や教職員の学問の自由や教育をうける権利などの人権との物理的衝突の調整にほかならないからである。
 ところが文部省見解にあっては、「教育上望ましくない」という理由から校内政治活動の「禁止」も可なりとしており、これは学校の教育方針という精神的な理由にもとづく規制である。そして、学生・生徒による政治的団体の組織ないしそれへの加入や、署名運動・ビラまきなどの禁止ないし許可制となると、事の性質上精神的規制にはかならないであろう。しかし、学校側が学生・生徒の政治活動に関して、教育指導を行なうことはともかく、教育的・精神的観点から法的拘束力ある規制を行ないうるどのような合理的理由が有るのであろうか。私立大学学生が無届で学外政治団体加入および学内署名運動を行なったことをきっかけとする退学処分を適法と判示した、昭和女子大事件の最高裁判決では、「学生の政治的活動を学の内外を問わず全く自由に放任するときは、あるいは学生が学業を疎かにし、」また「学生の勉学専念を特に重視」するといった当該大学の教育方針を妨げるおそれがあること、を挙げている。しかしそれらは、政治活動に関し教育指導を行なう理由とはなっても、政治活動を法的拘束力をもって規制する根拠にまではならないのではなかろうか。学生・生徒が政治的関心を強く特ってきているのに、その表現行動を禁圧する方法によって勉学に専念させようとするのは、真に教育的とは言えず、学生・生徒の政治的人権をふまえた教育態度ではないであろう。校内政治活動を押えなければ学生・生徒が勉学にいそしめないようでは、その学校の教育状況のほうに弱さがあるのではなかろうか。
 なお、さきの文部省文書には、教育の場の政治的中立性という理由も挙げられている。これは、教育基本法八条二項に「学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と規定されていることと関連せしめられているようである。しかしこの規定は文字どおり、学校の教育活動が特定政党の支特反対にむすびつくような党派的政治活動と化してはならないという条理を確認したものであって、それをこえて、校内でおよそ党派的な政治活動を行なうことを法禁しているわけではない。そして政治的中立を教育方針とする学校にあっても、そのゆえに政治活動を法的に禁圧することが許されないことは、前述のとおりである。
 小・中・高等学校においては、教科教育および生活指導の重要な一部面として政治教育がある。教育基本法八条一項でも「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。」と書いている。そこで、生徒が政治活動を行ないだした場合、それは生徒たちの生活上重要な行動であり、かつ生きた政治学習の機会でもありうるところから、教師たちは積極的な生活指導にのりだすべきだと考えられる。たしかに政治活動は、生徒個々人の政治的人権の行使ではあるが、同時に生徒にとって貴重な学習の機会でもあり、それに関してすぐれた教育専門的指導をうけることによって学習成果を上げていくという学習権行使の一場面でもありうる。この点で、生きた政治学習と政治活動とはなかなか截然とは区切れないものであるし、政治活動そのものについても真にすぐれた先生の教育的助言が結局自分たちのためになることを生徒自身も知る必要がある。「それは指導主義だ」と言われるかもしれないが、在学中の児童・生徒はその学習権・人間的発達権実現のために教師による生活指導をうけることが一般に予定されているわけであって、政治活動という生活行動もけっして例外ではないであろう。またその点では、生徒の校内活動と校外活動とで基本的なちがいはないと考えられる。
 ただし、生徒たちの政治活動にかんする教師の生活指導なるものは、十分に教育的専門性が高くなければ役に立だない。たとえば、生徒たちが持った問題認識の科学的検討、各生徒の進路選択・人生的覚悟にもかかわるものとしての重大な行動選択への助言、等々がなされていくべきであろう。しかし、教師がこのような教育的専門性を水準高く擁していけるためには、政治教育にかんする教師の自主研修の機会が豊富にあり、教育界全体が政治的に自由で自主的な雰囲気にみちているといった条件が必要と考えられる。今の日本の教育界にその条件が乏しいならば、ますその条件整備に努めるのが教育行政当局の責務であろう。
 ともあれ、政治活動生活指導における教師の教育専門的水準が低いときには、生徒たちの学習権・人間的発達権がよく保障されないだけでなく、生徒たちの政治活動の自由を誤って抑圧する結果を招く。この点について大阪地裁判決は、「指導にあたっては、政治活動の如く、生徒の基本的人格にかかわる問題については特に、いやしくも指導の名のもとに自己の政治的信条を押しつけたり、生徒の政治的自由を不当に抑圧するようなことがあってはならないのはもとより、生徒にそのように受けとられないよう慎重な配慮がなければなら」ないとのべている。
 昭和女子大事件においては、大学当局が無届で政治活動をした学生に対して「左翼思想を変えなければ在学を認めない」という補導を行なったのではないかが問題となり、一審の東京地裁判決では、「被告学校当局が思想の自由につき公的教育機関に要求される寛容の基準を守ら」なかった違法ありと判定されていたのであった。たしかに、政治活動そのものを反省させるという補導は、もはや真の生活指導とは言えず、政治活動の自由を侵害しているとともに、「すべて国民は、信条によって、教育上差別されない。」という教育基本法三条に違反するであろう。 ここで、そもそも大学生の政治活動にたいしてまで生活指導がありうるか否かが問題になる。少なくとも、小・中・高等学校の教師とはちがって、大学の教師には当然に政治活動生活指導の義務と責任があるわけではなかろう。大学における政治活動生活指導は、各大学の自治的運営の慣行として、学生偏との全般的合意の範囲内でのみ有りうるにすぎないと解される。また、昭和女子大事件で浮び上ったごとく、私立大学にあっては、私学教育の自由として、在学生との全般的合意の下である程度は保守的校風で教育をする自由が大学教師偏に認められよう。しかし、その保守的な校風ないし教育方針の実現のためにいかなる手段でも許されるわけではないのであって、政治活動に関しては専門性の高い生活指導が一定和度認められるのが限度であって、政治活動の禁止や許可制という法的拘束力ある規制はやはり学生の人権を侵すものと解さなければならない。
 以上の見地に立つとき、学生・生徒の校内政治活動にかんする純然たる教育的・精神的理由にもとづく許可制も届出制も、簡単に合憲とは解されえないのであって、現存のそのような校内規則は多分に例文と見るほかはないように考えられる。届出は、その機会に生活指導をなしうるしくみとして有りえないではないが、生活指導的に見れば、無届を規則違反だとして重大視するのは教育的ではないわけであって、そのような形式的な規則違反をただちに懲戒処分理由に据えようとする態度は、政治活動生活指導の立場からは遠く、むしろ生徒の政治活動の自由を全面否定する立場のそれである。

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