能力に応じて教育を受ける権利

 日本国憲法二六条一項の表現によれば、「すべて国民は、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」この規定は従来、国家が経済的条件を整えることによって能力ある貧困者の教育をうける機会を均等ならしめるという保障だと読まれやすかった。現に、代表的な人権憲法理論書において、憲法上の教育をうける権利は「過去において高等教育が大はばに貧乏人に無縁だった事情に着目し、貧乏人に対しても高等教育を受ける可能性を保障しようとするものである。」と書かれている。そして教育基本法三条でも、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。」と明記している。

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 たしかにこのような経済的、社会政策的な生存権保障の面が、教育をうける権利にとって端緒的かつ重要な中身であることはまちがいなかろう。しかしそれと同時に、文化的生存権でもあるはずの教育をうける権利について、教育の文化的内容面を捨象した、そのような経済主義的把握だけでは、とうてい十全な理解とは言えまい。世界人権宣言における教育をうける権利の条項には、教育内容面に関して「教育は、人格の完全な発展と人権及び基本的自由の尊重の強化とを目的としなければならない」と記されている。そこで、教育の内容面にもわたって教育をうける権利の保障を十全に正しく理解しようとするときには、能力に応じてひとしくということの意味が、あらためて問題になってくる。
 能力に応じてひとしく教育を受けるということを、従来の経済的条件保障説におけるように、先天的な能力程度やテスト成績順位に応じた段階における教育の保障だと理解していたのでは、教育をうける権利が真にすべての国民の人権にはならず、また人間教育としての内容面については何ら積極的な人権保障は無いことになってしまう。教育をうける権利の十全な正しい解釈は、教育の文化的内容面にもわたってすべての人の人権でありうるように、本質的に捉えなかすことによってなされるべきであろう。
 そこに登場してくるのが、教育思想と教育科学との深いうらづけを伴った、人間的発達権、学習権説である。人間はだれでも人間である以上学習することによって人間として成長発達していく権利を持つはずで、現代国家がその権利実現のために積極的条件整備を憲法上約したものが、教育をうける権利にほかならない。この人間的発達権説は、一九五〇年に世界人権戦減の教育をうける権利についてコメントを公にしたフランスの心理学者ジャン・ピアジエによって、つぎのとおり表明された。
 「教育をうけるという人権を肯定することは、すべての子どもに彼らの精神的機能の全面的発達を保証してやることである。したがって、それはとりわけ、各個人の区別をなす体格と能カとを考慮しながら、個人のなかにかくされていて、社会が掘りおこさなくてはならない可能性の重要な部分を失わせたり他の可能性を窒息させたりしないという義務をひきうけることである。これこそ、教育をうける権利の宣言が、精神的発達の諸法則についてわれわれがもっている心理学的、社会学的な知識の利用、およびそれらの研究が教育者に提供する無数の与件に適合した方法と技術との仕上げをふくむ所以である。」
 一九五九年国連の児童権利宣言の教育をうける権利の条項になると、この発達権的理解をより容易ならしめるように、「児童は、機会均等の原則に基づいて、その能力、判断力ならびに道徳的および社会的責任感を発達させ、社会の有用な一員となりうるような教育を与えられなければならない。児童の教育及び指導について責任を有する者は、児童の最善の利益をその指導の原則としなければならない。」と書いている。
 日本国憲法上の教育をうける権利については、学習権説が、教育学者によって一九六〇年代に展開された。そしてそれを早くも判例上の法解釈としたのが、家永教科書裁判にかんする東京地裁杉本判決であった。さらにその後、学力テスト北海道事件の最高裁大法廷判決が、つぎのように学習権説を確定判例に固めるまでになった。
 憲法二六条「教育を受ける権利」の「規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである。」
 これが一種の学習権説であることは明らかであるが、ここではいまだ、個性に応じて人格を完成させる権利といった人格主義的教育観が強いようで、杉本判決に比べても、人間的発達の法則をふまえた教育的専門性ということが、学習権の中身として十分に押えられていない憾みを残していよう。
 これに対して、さきの「人間的発達権、学習権説」に立って教育をうける人権を解釈するときには、「能力に応じてひとしく」も、教育によってすべての子どもの人間的能力発達が保障されていくように、新たに読み取られなければならない。すなわち、能力に応じてひとしく教育を受けるとは、一人ひとりの子どもの能力発達のしかたに応じて全員に能力発達を可能ならしめるような教育がうけられることを、指していると読むのが正しい。この発達指目学習権的解釈に立つときに、障害児がまさに、その能力発達のしかたに応じて能力発達できるような教育をうける権利の最たる主体として浮かび上ってくる。そしてそれは、国連の児童権利宣言五条が「障害のある児童は、その特殊な事情により必要とされる特別の治療、教育および保護を与えられなければならない。」と定めているところとマッチする。
 そればかりではなく、すべての子どもに人間的能力発達を保障する教育をうける権利は、先天的な能力程度またはテスト成績順位による教育の段階づけや進路の上下ふるい分けを、根深い教育人権侵害として問題視することになろう。子ども一人ひとりの能力発達のしかたにおける個性差に応じた、豊かな選択の余地ある教育の真の多様性は、学習権保障に叶うところと言えようが、テスト成績順位によって生徒の進路を上下にふるい分けていくような能力に応じた教育の多様化は、実は甚だしい教育の画一化による学習権侵害にほかならないことが、気づかれるべきであろう。
 真に教育人権として理解された教育をうける権利の下では、テスト成績順位によって人間的能力が上下に格づけされるべきではなく、各人の人間的能力はその豊かな多様性において評価されていくことになる。もっとも、定員の限定を伴う入試制度の有るかぎり、テスト成績の相対評価による上下のふるい分けは道けがたいが、すべての生徒の教育をうける人権保障の見地からは、入試制度は過渡的な必要悪と看なされるはずであろう。人権的常識に照らせば、大部分の生徒が努力の甲斐なく不合格の憂き目を見ることを予定してしくまれているような入試制度が、正常な教育制度であるとは本来なしえないはずだからである。
 このように教育をうける権利の学習権、発達権的理解は、教育内容面にかかわるとともに、学校制度をはじめ教育の外的条件をより良く整備することについても指示していくことになろう。

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