文化を担う国民の教育参加の自由

 学校教育にも一人ひとりの子どもの人生にかかわる私事性が有るかぎり、そのような個人的自由がふまえられていなくてはならない。しかし学校教育は家庭教育と異なり、社会的、集団的しくみであり、それとしてこんにちの公教育学校が子どもたちの学習権、人間的発達権を保障しているのである。そこで多くの学校教育内容は、クラスないし学校の全休に通ずる問題となるわけであって、ともに学ぶ子を持つ親たちの教育参加的かかわりも、集団化されざるをえない。親たちは父母集団として学校に対して教育要求を出していく権利を持つと解され、それは教育専門的な事柄についても教師に教育専門的判断を求める権利として有りうるであろう。ここで問題にしてよいのは、父母集団の教育要求権がどのような人権性をになっているのか、ということである。

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 国公立学校をふくめて教育活動そのものは、戦後教育にあっては教育行政とは区別されて、もはや国政ではないと見るべきであるから、父母が学校に対して主権者国民の立場から参政権を働かせていけるわけではない。父母国民が教育の主権者だと言うことは、比喩的表現としてはありうるが、父母の学校に対する教育要求は、あくまで人権主体としての国民の立場で行なっていくものと考えなければならない。ここをあいまいにすると、国民主権国家においては学校教育も国政の一部として議会制民主主義のルートにもとづく国民の付託によって国家機関が決定できる、という趣旨の国家の教育権説を許してしまう。
 つぎに、父母集団はたしかに、子どもたちの教育をうける権利、学習権に代位して、学校に教育要求を出していく人権的根拠を有していると言えよう。学校に対する積極的な教育要求や条件整備要求については、まさしくその社会権的根拠が重要であろう。しかしこれはあくまで父母自身の人権ではないわけであるが、個々の親を超えて集団を成している父母自身には、国民としての学校教育参加の自由という教育人権が保障されているものと解されるのである。主権者国民ではなく「文化のにない手としての国民」が、子どもたちの教育にしかるべく参加していくという文化的自由を持っているはすであって、PTAに結集している父母には、まさにそのような文化的教育参加の自由を持つ国民の立場が有ろう。したがって、PTAに法律的根拠が無くても、PTAなどを通じて父母が学校教育参加をしようとすることを、もし国家や学校当局が妨げるときには、そこに、教育参加の自由の侵害ありと言うことができよう。
 人間の教育には、前述の私事性と同時に、社会全体にわたる社会性が有る。その社会性にもいろいろな意味あいが有って、とくに教育の国力増進機能が国家にもっぱら政治的に利用されるようであると、ついに人間教育としての本質を失うことにもなりうる。では、人権の見地から注目されてよい教育の社会性の意味あいは何であろうか。筆者はそれを、教育の文化性、教育を通じて人間の文化が再生産されていくということである、と考えている。学校教育は、子どもたちを既存の文化に触れさせ学習させることによって人間的に成長発達させ、それを通じて人間の文化の伝承とともに創造、発展をも図ることになっている社会的、文化的働きである。したがって、人は、わが子の教育を超えてでも、子ども一般の教育のあり方について、人間文化の継承発展をわかり見地から関心を指し、しかるべきルートで参加したいと考える理由が有る。
 ところで近代憲法が確認している人間の精神文化の注目すべき特色が有る。それは、人間の精神文化は超個人的、社会的なものであるが、その形成、再生産は個々人の自由な活動に依らざるをえず、それが多分にかのすから全体として文化を成していく、ということである。思想の自由、信教の自由、芸術の自由、出版の自由、学問研究の自由などは、いずれも個人的自由であるが、その働きの結果が社会全休として人間文化たる思想、宗教、芸術、学問を形成するという特色を特つ文化的自由である。国民の教育の自由もそのような文化的自由の一種と考えられ、自由な個々人として全体的に文化をになっていくという立場を憲法上認められている国民の個々人が、子ども一般の教育に参加する自由を有するのである。その国民による学校教育参加は、あくまで自由な個々人としてしかるべき、文化的ルートによってであって、けっして主権者国民としての議会政治的介入であってはならない。
 しかるべき文化的ルートとしては、さきにのべたPTA父母参加が有り、地域的教育組織への参加や、後述の私学設置、教育の自由が有るほか、教科書の出版が挙げられよう。家永教科書裁判においては、まさに文化をになう国民個人としての教科書執筆者の学校教育参加の自由が、文部大臣の教科書検定によって侵害されていないかどうかが、主要な争点になったわけであった。基本的に自由につくられる多様な教科書の存在が、すべての子どもの学習権の保障にとって必要なのであり、また学校教師の教育権を充実させることになるのである。
 教育行政もまた学校教育参加の文化的手段を手にしていると言えるのであって、それが、非権力的で教育専門的な指導助言にほかならない。それを越えて学校教育内容の決定権を持とうとすることは、中央官庁がみすがらを国民文化の恒常的な守護者で解釈者であるとみなすものであって、国民の教育の自由とは基本的に両立できない考え方である。

戦後改革における人権保障と教育のかかわり/ 障害児に関する就学義務猶予、免除/ 国公立学校における特別権力関係/ 私学における人権保障の適用/ 教育に関わる一般人権と教育人権との区別/ 教育に固有な人権としての教育人権/ 子ども達の生命、身体権について/ 学校施設での環境の悪さによる人命事故/ 教育活動条件の悪さによる自身事故/ 人身事故を招いている体罰/ 子どもの健康権と学校給食/ 子どもの私生活の自由とプライバシー/ 学校活動と家庭プライバシー/ 公教育における思想良心の自由/ 愛国教育と思想良心の自由/ 学生生徒の政治活動の自由と校内教育の秩序/ 平等権と家庭科の女子必修問題/ 私生活の自由と教職員の服務規則/ 思想良心の自由と教育員人事/ 教師の政治活動の自由とその制約/ 教職員の休息権/ 教職員の労働基本権/ 子どもの教育をうける権利/ 能力に応じて教育を受ける権利/ 学習権と社会教育/ わが子の教育に関する親の選択の自由/ 文化を担う国民の教育参加の自由/ 私学教育の自由と公費助成/ 教師の教育権の複合的性格/ 学問の自由と教師の教育研究発表の自由/ 教師の教育の自由と子どもの学習権/ 教育界における人権保障方式/

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