教育法の沿革

昭和20年以前の日本の教育と法の特質は、絶対主義的な天皇制国家権力によって強行的につくられたことに由来しています。日本の近代的な教育制度は、明治5年の学制によって発足した。学制は、フランスの教育行政制度やアメリカの学校制度を模範して構想され、制度自体は整然とした壮大なもので、全国に大学8校、中学校256校、小学校53,760校を設け、国民皆学を期する画期的なものであったが、この政策は教育を人民の権利として人民によって担われるべき事業として構想するものではなく、維新政権の富国強兵、殖産興業の国策に役立つ教育をつくりだすためのものでした。政策的に創出された教育と法は、それまでの社会において営まれていた民衆の教育的営為とは全く断絶していたばかりでなく、民衆の教育要求や意識を無視して権力的に強制されました。学制はその外見上の進歩性にもかかわらず、本質的に人民の教育要求にたいして敵対的であったために、徴兵令、地租改正条例とともに民衆の激しい抵抗にさらされました。

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学制の壮大な教育計画は、政府の強力な推進にもかかわらず破綻しました。明治12年、教育令によって、アメリカの制度にならった、より自由な教育制度に改められますが、これも、翌年には再び国家的強制を軸としたものに改められました。当時、勢いをましつつあった自由民権運動への対応と関係しています。このように、当時の政権の不安定さを反映して教育政策は動揺し、戦前における教育と法の体制が固まるのは、80年代の後期から90年代にかけてです。
戦前の階級的な差別、選別の複線型学校体系は、明治19年森有礼による小学校、中学校、帝国大学、師範学校という各学校別の学校令制定によって基本的に成立した、戦前の教育法制の特質であります。教育立法の勅令主義の敢行は、明治23年の小学校令改正において確立しました。これは教育立法は天皇の勅令の形式で行うというもので、前年に発布された大日本帝国憲法のきわめて制限された立憲主義さへも教育には適用しないという憲法上の一大変例の慣行でありました。これによって教育政策にたいする国民の発言は制度的に閉ざされました。教育の内容の根本は教育勅語によって定められました。それは、朕惟うに、で始まり一旦緩急あれは義勇公に奉し以て天壌無窮の皇運を扶翼すへし、と臣民の忠誠をつちかうことを教育の根本目的とするという天皇の意思の表明でありました。勅語は形式は法ではないが、天皇の聖論ということで超越的な価値とされ、他方、教育法規や行政的な施策において教育勅語の旨趣に基つくべきことを規定することによって、教育の根本法として機能させ、いわゆる教育勅語教育体制をつくりあげました。このような教育のあり方を現実化するためには、教師が国家の定めた教育方針と教育内容を忠実に実践することが必要です。それは教師から真理をつかむ力を奪い、国家の命に従順な性格を養うことによって可能になります。明治13年の集会条例、明治23年の集会及政社法などにおける教員の政治的権利、市民的自由の厳しい制約、明治14年小学校教員心得にみられる教師の人格におよぶ行為基準の強制、あるいは森有礼による独特の軍隊教育の方法をさいようした師範教育制度による人間性の変容などがその天皇制教育の実践者としての教師を造出する制度でありました。教育と法の体制は、教育は天皇の権利であり、国民にとっては臣民の義務であるということを根本原理とするものです。この国家教育権を原理とする教育行政が、国家主義的、官僚主義的な特徴をもち、中央集権的な組織構造をもったことは当然であります。また、地方には独自の教育行政組織がなく、一般行政組織のなかで教育行政が行われたこと、教育に関する法は、教育行政に適用された行政法としての教育行政法に他ならなかったことなどの事情から、教育行政は内務行政に従属していました。そして、教育と教育行政の区別の観念はほとんどなく、教育の自由、教育の自律などは、事実として存立しえなかったばかりでなく、そのような観念を容認しうる余地もなかったのです。
明治33年頃になって教育勅語教育法制の整備がすすみ、日本資本主義の発展にともなう国家の教育要求にみあった教育制度の拡充がはかられました。明治33年には義務教育年限の4年について就学義務規定が強化されるとともに授業料不徴収の原則も定められ、また教育費国庫補助法の制定にみられる教育費の公費負担へのきざしもでてきました。また、この前年には私立学校令、実業学校令、図書館令などが制定されています。このような教育制度の拡充は、第一次大戦後の新しい社会状況のもとで一段とその性格を明確にしました。大正7年、義務教育費国庫負担法の制定により教員給与の一部国庫負担が実現し、また新たに大学令が制定され、私立大学が認められ、国家の須要に応する高等教育機関の大拡張がすすめられました。他方、大正14年の地方社会教育職員制などにみられるように社会教育の国家的掌握がすすみ、労働者農民への教化網が制度化され、また陸軍現役将校学校配属令やさらに大正15年の青年訓練所令にしめされる軍事教育の徹底など、いずれも、新たな帝国主義の膨張政策が教育政策の基調となっています。それはファシズムの教育をめざすものでした。
これに対して1920年代から30年代にかけて、労働者、農民の階級闘争が高揚し、人民の教育への権利の自覚が発展し、階級的な立場を明確にした教育労働者組合も組織され、人民の教育権の思想にたった闘いが展開されました。このような教育をめぐる階級的な対立の激化にたいして、昭和3年、大学、高校生の社会主義運動への参加を取り締まることを直接の動機として文部省に学生課が設けられましたが、この思想取り締まりの政策と機構は学生部、思想局、教学局、と強化されて、教育全体に広げられ、教育のファッショ的支配に猛威をふるうことになりました。こうして、真理に忠実たらんとした学者も学生も教員も行政的に抑圧されたばかりではなく、特高警察の逮捕、拷問によって生命を奪われる危険にさらされました。小学校の教員もその教育実践をたえず監視され、子どもを人間らしく育てようとした良心的な教師の多くが、さまざまな口実で治安維持法違反に問われ検挙、投獄されたのです。昭和16年、義務年限を8年とする国民学校令が制定され、その教育内容も一見近代的な装いをこらしていたが、その本質は皇国の道に則りて、国民の基礎的錬成を為す、ファシズムの教育法制の完成を宣言するものでした。このファシズム教育が教育の自己否定にほかならないことは、数年を出ずに学徒動員、学童疎開、そして学徒出陣として現れ、それは昭和20年の戦時教育令によってその教育破産を法制的に確認することとなりました。戦前の天皇、国家の教育権を根本原理とする教育勅語教育体制が内包していた反教育の本質は、歴史の中で事実において証明されています。

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