教育裁判

教育裁判もまた、国民の教育生活における紛争を法的に解決するための営みです。その際、当然のことながら、紛争解決の法的基準として教育法の現定や条理がもちだされるのを常とするところから、教育法の解釈は、この裁判遇程を経ることによってはじめて具体的に確定され、有権的なものとなりました。ところで教育裁判が活発に起こり、裁判現象のなかで一大ジャンルを形成するようになったのは、戦後のことでです。1945年の敗戦までは、一つには、教育は、国家の事業、であり天皇の大権事項とされ、およそ国民の権利、自由としてとらえることが許されなかったこと、二つには国や行政当局を相手とする、行政訴訟が行政裁判法によって著しく、窓口をせばめられ、当局の教育運営に関する法的責任を追及する途が、実際上閉ざされていたことなどの理由により、国民の間にどれほど教育行政に対する強い不満があっても、教育裁判という形をとるまでにはいたりませんでした。ところが、敗戦に伴う国政の根本改革、なかんづく教育制度の民主改革によってすべての国民に、教育を受ける権利が、憲法上保障され他方裁判制度も抜本的に改められて、およそ国民の権利利益にかかわる、一切の法律上の争訟、がとりあげられることとなった結果、教職員にせよ、父母・国民にせよ、その教育生活上の不満や要求を裁判手続にかけて解決し、法的なケジメをつけるのに、なんらの障害もなくなったのです。

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敗戦に伴う革命的改革はいわば制度の改革であり、教育裁判への可能な途を切り開いたというにすぎず、実際に教育裁判が活発に起こるには、その制度を現実に運用することを必要とする、客観的な条件と、制度の連用を求め、教育裁判をやりとおすだけの国民の側の主体的な高まりとに待たねばなりませんでした。これをいいかえれば、日本教育裁判の戦後における展開は、社会的、政治的には保守的支配勢力による文教政策の推進と、これに抵抗する教師、父母など国民諸層の教育運動の発長に密接に対応し、他方では広く国民の間における、教育を受ける権利、の意識の浸透や教職員のなかでの労働者権の自覚の高まりによって説定されたということが出来ます。その展開の状況を概観してみましょう。戦後の教育裁判の流れは、ほぼ10年をひとくぎりとした、三つの時期に区分してとらえることができます。昭和20年代は、日本資本主義経済と、これに連なる保守的政治勢力が、占領米軍の庇護のもとに敗戦による打撃から立ち直り、営々として、自立、ヘの途に励んでいた時期であり、いわば、ひきつづく全面攻勢を準備するための雌伏の段階でありました。と同時に、国民や教師の側にとっては戦後の解放によって与えられた、学生連動や教員運動の権利が、いち早く方向転換した占領米軍や、これに追随する当局・官憲の弾圧によって挫折させられるにいたり、これまた自らのカで抵抗することを、余儀なくされた時期でありました。この時期には、大学の自治と警察権の限界にかかわる東大ポポロ座事件や、愛知大スパイ事件などの刑事事件、公私立大学等における学生処分をめぐって、学校当局の処分裁量を争う民事語事件、および占領米当局の反共路線転換に伴う、教員レッド・パージ事件が目につく程度で、教育裁判史でいえば、未だ、夜明け前、とでも評すべぎ状況にあったといえます。続く昭和30年代は、奇蹟の復興、をなしとげたわが国の支配層が、アメリカの直接的な占領支配から離れて、自前の続治体制の確立にのりだし、税制・警察などに続いて、教育をも中央集権によりその掌中に収めようとし、教育二法、設育三法、勤務評定、学習指導要領全面改訂、学カテストと、矢つぎばやに重要施策を強行した時期でです。これに対して、漸く労働組合として地力を蓄えた日教組が猛然と反発し、それらの撤回、中止を求めて、全国一斉ストライキなどの実力行使を敢行したため、各地で官憲との衝突や教委当局の処分弾圧を呼び起こし、それらが刑事、民事の裁判事件となって、おびただしい教育判例を生み出すこととなりました。この時期は、教育政策と教員運動との全面対決によって教育裁判が、一斉に花開いた段階といってよいでしょう。そのなかで、昭和37年に最初の第一審無罪判決をもって、スタートした勤評闘争刑事事件は、同44年4月2日の最高裁大法廷判決で、地方公務員法の実質違憲・全員無罪という結着で有終の美をかざるまでに、20に近い下級審判決を生みだし、また現場教師の学力評価活動を排してまで、文部省・教委当局は一斉学カテストを生徒に課しうるかという問題を通して、教育基本法10条の解釈が争われた学テ裁判は、同じく最高裁大法廷判決をみるまでに、全国各地で十措に余る、下級審判決を輩出している。昭和40年代以降は、前期のドラスティックな、教育攻勢に変わって、我が国支配層の高度経済成長政策のもと、経済的優遇による教員抱えこみや中教審答申を通じての産業界の教育要求実現など、巧妙かつ柔軟な路線にのり出していきました。対して国民の側は、一方で前期来の教職員組合を先頭とした教育闘争の成果に支えられつつ、また他方でより内面的に深刻化してゆく教育の国家統制・産業支配の事態にたまりかねて、自らすすんで教育裁判の闘いにうったえ出るまでになりました。その典型的事例が、家永三郎教授による教科書検定違憲訴訟です。この裁判では、それまでと違って教師や学生でなく、国民のひとりという立場から訴訟が提起され、そのために広く、国民の教育の自由、なる主張が可能となり、したがってそこでの論争は国民の基本的人権としての教育の自由成否という憲法レべルのものに高められ、裁判運動への国民的参加の途が開かれることとなりました。戦後教育裁判は、ここにはじめて本格化したということができるのです。

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