教育法の基本原理

基本的人権は、理念としては人間に固有の前国家的自然権を出発点としますが、現実の法規範としては、時代により、国家の違いによってその形式および内容を異にしています。日本国憲法では、第二次大戦後の、進んだ資本主義国の憲法であり、同時に日本がはじめて持つことになった、立憲主義的、民主主義的憲法です。日本国憲法の第三章、国民の権利及び義務、にニつの特色を与えることになります。第一の特色は、西ヨーロッパの17、18世紀を風靡した近代的自然法にもとづく、古典的自由、平等観が取り入れられていることでです。この古典的人権観は、戦前の大日本帝国憲法の人権規定が不十分であり、立法と適用の現実が、あまりにも人蹂躙にみちみちていたことへの反省として積極的意味をもっていました。

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第二の特色は、憲法史上、20世紀になって登場する現代的人権観を大幅に取り入れていることです。古典的自由が、国家の干渉を禁止する消極的なものであるのに対して、現代的人権は、国家の関与によって実現するという積極的性質をもっています。憲法学では、自由権的基本権、生存権的あるいは社会権的基本権と一般によんでいます。日本国憲法における教育は、基本的人権という観点からみた場合、このニつの特色を兼有しています。これまで、条文の位置から推定して、学問の自由は古典的自由であり、教育を受ける権利は、社会権的基本権として考えられがちでしたが、双方の規定は、日本国憲法下の教育という、統一的見地でとらえられる必要があります。
日本国憲法下の教育として、私教育と社会教育の二つの形態が考えられます。国民個人の完全な自由にゆだねられ、自らの負担で教師を傭い、希望する内容の教育を受けることであります。公教育であり、一般には公の支配に属する学校での教育であり、特殊的には学校外での狭義の社会教育です。資本主義社会においては、純粋な私教育は一部富裕階級の特権となり、勤労者階級のすべてを含む、国民が私教育を享受することは事実上できません。したがって、私教育は教育の理念的原点とはなっても、現実の原則とはなりえないです。資主主義社会における教育の中心になるのは、社会教育、公教育であり、それは、資本主義社会の維持・発展に不可欠な教育である以上、社会の負担において行われ、それを受けることは個人の義務と考えられます。現代の公教育は、無償の義務教育である小学校、中学校から、高等学校、大学へと、あらゆる段階の学校をもっていますが、初等教育である義務教育ほど社会的性格が強く、高等教育の段階になるほど私的、特権的性格が強いのです。教育内容は、資本主義社会の、支配階級的必要によって、事実上規定されがちです。そこで問題なのは、公教育の理想的形態をいかに考えるべきかです。公教育を構成する教師と学生の関係において、基本的人権が尊重されなければならないのは、国民一般の関係以上です。公教育は既成の文化を継承するだけでなく、新しい文化を形成することを理想とするから、教師と学生の双方に最大限の自由が必要なだけでなく、創造的教育が行われうる場が社会によって保障される必要があります。国家および地方自治体の設置する学校は、そのような社会的要請に応えるべきであり、その点では、私立の学校もなんらかわるところがありません。このような形で、日本国憲法下の公教育は、古典的自由と平等、および社会権的基本権と深いかかわりをもつようになります。
憲法23条は学問の自由を保障しています。学問の自由とは、学問研究、研究成果の発表、教育の自由のすべてをさしています。明治憲法のもとでは学問の自由は認められず、一切の学問には、なによりも研究の自由がありませんでした。学者が研究の対象および方法を自由に選ぶことができず、一定の国家目的がそれに厳しい枠をはめていました。社会科学の場合とくに顕著であり、例えば日本の政治、社会の要をなしていた天皇および天皇制について、研究の自由がまったくなかったことは、周知のとおりです。研究成果の発表にも検閲があり、治安維持法のような厳格な思想上の制限がありました。教育は国定教科書を基準とし、国策の枠内で行うことが、認められていたにすぎません。日本国憲法が学問の自由を認めたのは、人類の歴史的経験にもとづくものであり、直接的には、明治憲法下の学問的不自由の弊害に対する反省によるものであります。学間の自由は、アカデミック・フリーダムとして、専ら大学における学問研究、発表、教育の自由を意味するという学説があります。アカデミック・フリーダムが、学問の自由の重要な部分を占めていることは確かであるが、学問の場を大学にだけ限定する必要はありません。もちろん程度に差はあるが、大学、高校、中学、小学校のすべてを通じて、およそ学校という場で、学問の必要のないところはないからでありす。大学は学問研発の場であり、小、中学校は教育の場であるという、研究と教育を分離する考え方は正しくないのです。すべての研究は、それも継続して行い、その成果を普及するためには、教育を必要とするし、すべての教育は、それを正しく、有効に行うためには一定の研究を前提とします。研究と教育は、完全に分離しうるものではありません。研究成果の発表は表現の自由の問題でもあるが、学問研究の成果の発表はとくに自由で制限のないものでなければ、学問の発展を促進しえないです。教育の自由については次に述べます。
学問の自由に包含される教育の自由は、研究成果を特定の教育対象である学生に教育する自由でであって、これを狭義における教育の自由ということができます。その典型的な例は、自治を認められた大学における、教育の自由です。広義における教育の自由は、日本国憲法のもとにおける、教育一般に通用するもので、私教育と公教有、学校教育と社会教育の別を問いません。教育はつねに、教える者の個性的・創造的行動を通し、教えられる者の人格形成を伴うから、その根本において個性的であり、自由でなければなりません。国家の権威や社会の理由のない通念は、教育の自由にとってはなはだしく有害であります。しかし、憲法26条の教育を受ける権利や義務教育について、それが社会権的基本権であることから、公権力の積極的関与を認め、そのことは、教育の自由を制限する埋由となるかのように、誤解される場合が少なくないです。すべての国民が、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利があり、その権利を行使しようとすれば、国および地方自治体は、国民の教育要求を満たしうる学校等の教育施設を整備する義務があります。公権力の積極的関与なしに、そのような施設は実現しません。しかし、それはあくまで教育条件の整備であって、公権力が教育内客に積極的に千渉できることを少しも意味しません。公教育に必要な教育の条件整備と、教育の内容とは明確に区別されなければならなりません。公の支配は教育条件についてのみ行われ、教育の内容にはおよばないです。もちろん教育の内容はどんなものであってもよいわけではありません。初等・中等・高等教育の段階に応じ、教育を受ける者の精神発達の程度に応じ、教育の内容に自ずから相違があることは自明のことです。その具体的内容は、教育についての学問的研究が、これを明らかにするであります。教育内容は、一定の国策や党派的政策によって決定されるべきではなく、教育学の研究成果にもとづいて、科学的に決定される必要があります。文部省による教科書の検定制度が、教育の自由と表現の自由を侵害する憲法違反となるのは、国が教科書の記述の学問的内容に干渉するからです。公教育の内容は、資本主義社会ではつねに対立する勢力によって千渉をうげがちである。公教育はしばしば国家教育と同視され、国家の政策をつうじて支配階級の要求が教育の内容にもりこまれます。それに反対する現場の教師は、教育の実践のなかで、勤労者階級の要求を直接にもちこむことがあります。これでは公教育は、階級闘争のイデオロギ−版とならざるをえません。この弊害をなくすためには、まず教育内容にたいする権力的介入を、やめることによって、広い意味での教育の自由を確立する必要があります。そのうえで、教育を担当する教師を中心に、あらゆる段階の教育について、その科学的内容を決定する必要があります。教育者にとって研究が必要なのはそのためです。

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