子供のうそ

 古くから、うそつきは泥棒のはじまりとか、うそをつくと閻魔様に舌を技かれる。などといわれてきました。これらはうそを罪悪視する機制からでた言葉であって、「子どもはうそをついてはいけない」というおとなの側からの抑圧です。
 ところが、一方おとなの社会ではしばしば「うそも方便」といわれることがあり、また「正直者は損をする」とか「馬鹿正直」などといわれることがあります。ここではうそを単に許容するだけでなく、積極的に奨励さえしているようです。もちろん、これらの言葉はコミュニケーションを円滑にするための手段とか、ある社会的状況のもとでの人間性の一面や、個人の性格に根ざした融通性のなさといった意味を表現するのに使われています。
 重要なのは、うそは対人的社会的な状況の中から、必然的に生れてくるということです。うそをつくということは人間の運命的な社会的行動の一つという考え方があります。「生れてからこのかた一度もうそをついたことがない」などというのは、人間のつく最大のうそでしょう。発達的には、人間は心と身体を備えた社会的存在であるといわれますがが、社会という心理的枠組の中で生きる限り、人間はうそをつかないでは生きていけない存在です。子どももこの例外ではありません。おとなも子どもも、あたかも虚構の社会に生きているといえるかもしれません。

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 人間のうそは、多種多様なものが意識的な面や無意識のレベルに存在していて、精神分析学では夢の中にも虚構があると指摘しています。そこでいくつかの観点、たとえば表現形態、欲求や動機、適応・防衛の機制、道徳的観点などから、いろいろな分類が試みられています。
 たとえばうその表現形態からとらえるなら、事実をことさらに大きく吹聴するといった誇大表現のうそ、その逆である過小表現のうそ、空想・願望的表現のうそ、言い訳的な表現である合理化のうそといった分け方があります。
 ところで「子どもは大人の小型ではない」といわれるように、子どものうそは大人のうそと根本的に異った特徴があります。子どものうそは発達段階の心性を無視して考えることができません。
 子どもの思考は、年少の間は情動的な色合が強くかつ自己中心的で興味本位です。この自己中心的な思考が無意識的なうそを多くつかせるのです。こんな例があります。独り寝のしつけを受けているが、まだそれが十分でない子どもが、夜更になるとしばしば目醒めて「足が痛いよう・・・」と泣き叫びます。ところがこの子の足はいくら調べてみても少しも痛いところはなかったので、やがて足が痛いというのはうそであることがわかったのです。このようなうそをつかせたのは、独り寝の淋しさや恐怖感に酎えられないのと、母親にいつも自分のそばに居てもらいたいという欲求が強かったからです。また単に親を呼ぶことでは、甘えん坊といってとりあってもらえないか、叱られるだけだったことにもよります。子どもにとっては、親は自分のためにこそあるのであり、すべてのものは自分の欲求のために存在しているとさえ思われます。こうしたことを考えれば、たとえば子どもの盗みは無意識のうちに現われた「愛情の請求書」であるといえましょう。
 さらにまた、子どものうそには怪獣などの、うその演技に象徴されるように、空想性ゆえの無意識的なうそが多いのも大きな特徴の一つです。
 要するに子どものうそは、年少の頃にはまだ自他の明瞭な区別がついていないために、うそがどんなことかほんどわかっていないで、自己の欲求や確信に従って無意識的にうそをついているといったことが多い。したがってこのような子どものうそは、大人のうそに内在するような罪深いものではなく、単に言語や思考の未発達ゆえのうそであることが多いのです。子どもが意識的にうそをつきはじめるのは、六〜八歳頃からです。

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