成熟と学習

発達は、もっぱら内側にしかけられた生れつきのしくみが自然に姿を現わしてくる過程と考えられてきました。このしくみは、外からの働きかけによっては、別に本質的な影響は受けません。そこで、発達を研究するには、成熟という仕組みがいつどのようにして出現するかを待ちうけるよりほかないことになります。その有様を忠実に観察し記録して、一歳でしゃべれる言葉を平均して幾つくらい、一歳半ではこのくらいに増えるといった発達の標準を作ることで、仕事は終わります。考えてみると、いかにも受身で消極的な方法ですが、成熟が自生的である以上、それしかないとみられてきたのです。
そのようなわけで、発達の研究は、もちろん教育や学習の研究とはまったく無関係でした。発達が外からの働きかけを拒否する以上、それも当然なことです。就学前の教育では、何もできないし、何もしないほうがよいということになるわけです。逆にいうと、発達観が変われば、就学前教育についての考え方も当然変わらざるをえません。発達観と幼児教育との密接な関連をみることができるでしょう。

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しかし、成熟優位説は、単にもっともらしい信仰ではありません。そこには、動かしがたいようにみえる多くの実験的な証拡があったのです。
この考え方の担い手は、アメリカの発達心理学者ゲゼルですが、彼の指導した有名な実験に次のようなものがあります。生後四六週目の一組の一部性双生児を使って、一方には、階段登りの訓練を行ない、他方には、その訓練をしない、という試みでした。実験の結果はどうだったでしょうか。一方の訓練された子供は、六週間後には、階段を二六秒で登ることができました。しかし、未訓練児の方は、四五秒もかかってしまいました。そこで、これだけからいうと、階段登りの訓練は非常に大きな効果があったことになるのです。
ところが、この訓練していなかった双生児にその後二週間だけ階段登りの練習をさせました。する と、この二番目の子供はどんどん一番目の子に追いつき、二週間目には、むしろ上手になるほどでした。
そこで、ゲゼルは、階段登りのはたらきが出現するためには、練習よりは成熟のほうがはるかに大切な役割をもつ、と結論します。一番目の子どもには、六週間もの長い期間をかけて訓練したのに、二番目の子供に比べれば、はるかに能率の悪い成果しかあげられなかったわけです。そのことは、より早期に訓練した一番目の子には、そのときまだ階段登りを受けいれるだけの成熟あるいは神経生理学的レディネスが備わっていなかったことを意味しています。逆にいえば、ある成熟段階に達したとき、はじめて訓練は有効といえるわけでしょう。練習の効果も成熟によって決定的に左右されるのならば、成熟こそ第一の主導権を握るものということになるわけです。
もっとも、この結果が階段登りに関してだけならば、この結論はあまりにも性急であり、不当な一般化だということになるでしょう。しかし、ゲゼルたちはその他にも、ボールを扱う技能、積木つみ、言葉の習得などいろいろな領域について同様な試みを行ない、似たような結果をえています。また、その後、ゲゼルの実験に倣った様々な試みが一時輩出したことかありました。これらは、はさみの使用から数字の暗記にいたるまでの幅広い技能について行なわれたのですが、いずれも同様な結果を示しています。そんな次第で、成熟優位説は、きわめて確固たる基盤にたった不動の一般原則とみなされてきたのでした。
成熟優位説が、ただの直観的主張であるならば、これに反対することも容易であり、自分はそう思わないとか気に入らないとか言えばすむことでしょう。
しかし、上のような実験的な資料に対しては、やはり、事実上の証拠をもって答えないかがり無意味です。前のほうに、知能の素質説あるいは成熟説については、部分的ではありますが、反対の論拠をあげておきました。以下には、むしろ一般的な見地から、この成熟優位説とは相反する結果および新しい立場についてのべましょう。
まず、ゲゼルの結果は、まったく動かしがたいようにみえるのですが、そのとおり認めていいでしょうか。この点には、いくつかの異議があります。
第一に、ゲゼルらの実験は、あまりにも短期間にすぎると思います。六週間は、実験としてなら長いといえるでしょうが、人間の一生からみれば、ほんの一瞬ともいえましょう。多くの子供は、何年も、ときには何十年ものあいだ同一の目標を追いつづけるのですから、したがって、本当に練習が無効といえるためには、もっと長い期間にわたって継続的、系統的な実験的訓練が試みられなければなりません。
第二に、それらは、体系的な訓練になっていない点が指摘されます。それ以前に、この子供は、どのような経験をもち、どのような技能を獲得しているか、こうした土台との関係にたってどんな訓練を行なうべきかが決められねばならないと思われるのですが、ゲゼルらでは、そこがまったく考慮されていないのです。
第三に、それは、子供の自発性に基づいた訓練ではありませんでした。後に説くように、このことはたいへん重要なのです。いいかえると、子供は、階段登りに興味をもち、自らその技能を養おうとする喜びを求めて練習に励んだわけではありません。それは、実験者が勝手に選びとり、外側から子供に押しつけた任意の目標にすぎませんでした。
第四に、この実験計画では、他の様々な日常的な行為からくる効果の波及がまったく考慮されていません。例えば、伝い歩きとか、玄関の踏み段を登るとかいう行動は、二人の双生児とも実験期間中同じように行なっていたと思えます。ところが、こういう運動型の練習は、部分的には階段登りと共通したものを含んでいるにちがいありません。この効果は、実際の階段登りの練習にかかったとき、はじめて表面にあらわれたとみなすこともできるでょう。このように、実験場面以外での練習の効果がうまく統制されていないようです。
第五に、臨界期という考え方が、まったく考慮されていません。後にのべるように、例えば、人間に言葉を覚えるためには、満一歳から二歳くらいまでがとりわけ重要と考えられているのですが、このように、学習とか環境条件のもつ刺激効果が最大限にはたらく特則を臨界期と呼びます。ゲゼルの時代には、こういう特殊な時期があることはあまり知られていなかったのですが、近年は、この概念がきわめて重要と考えられているのです。そうだとすれば、学習の効果は、どの時期でも無差別に同一ではありません。ほんとうに練習の効果を確かめたいのなら、特にそれが有効となるような発達の段階を選んで練習を行なう必要があります。こういうことも、上にあげた実験では、まったく考慮されていなかったのです。
第六に、学習のあり方について、ゲゼルらにはある固定観念がありました。最初にあげたように、やさしいものから難しいものに進行のが練習法として適切だという考え方はごく一般的なので、これを打ち破る大胆な方法なかなかみつからなかったわけです。
第七に、学習とか習得とかいうことがらについて、ゲゼルたちは、指導者、先生、あるいは両親がこういうことを教えようと考え、ある教育技術を使って、ある目標に達するまで教えこむことだ、と思いこんでいます。しかし、はたしてそれだけが教育のすべてなのでしょうか。そこに考え直す余地はないでしょうか。
ゲゼルらの実験に対する反論という形で、すでに、新しい考え方の一端はのべてしまったようです。そのうち、第三、第五、第六、第七の異議はとくに重要と考えられます。

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