家庭における母親不在

日本語の教育という言葉には、どうも強判とか詰め込みというニュアンスがつきまといます。私たちは、教育というと自然に、一定の方式と目標をもった集団授業の形態、つまり学校教育を、ほとんど唯一と考えてしまいます。そこでまた、学校教育の先回りや模倣だけが家庭教育であるような錯覚にも陥りがちです。英語の教育という言葉も、制度化され公式化された教授形態を第一義としていますが、単に、性格や知力の発達を意味することもあり、ときには動物訓練などを指すこともあります。日本語の教育よりは、やや内容が広いようです。
ホスピタリズムの知見から知られるように、家庭環境や母親の果たす役割には、もっともっと幅の広いものがあります。それを知るために、もう一つ、家庭における母親不在の例について書いてみましょう。

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ある一流企業の部長の長男として、物資的には何不自由なく育てられた小学校四年生の男の子の話です。学校の成績はとてもよく、身体心丈夫で、人からはいつも優等生の代表のようにほめはやされています。
しかし、母親には、人知れぬ悩みがありました。この子は平気で嘘をつき、また、家のお金を盗みだすのです。最初は、二年生のとき、母親のハンドバックから七、〇〇〇円もの大金を盗みだして、つまらない買い食いその他に使ってしまいました。手口は、たいへん巧妙で、母親があまり細かく所持金の計算はしなのを知っていて、一、〇〇〇円、五〇〇円と気のつかれないほどの額を何回にも分けて盗みだしていたのです。しかし、ふとしたことからそれがわかりました。母親は、もちろんびっくり仰天して、きつく叱りつけ、以後は決してしないことを言わせました。本人も泣いて謝り、もう二度としないと約束したのです。
しかし、その後も、この嘘と盗みぐせは直りませんでした。前のように、大胆なかわりすぐ発覚する盗みはなくなりましたが、給食の費用を落としたとか、買物の値段を高くいってごまかすとか、かえってたちの悪い形でいつまでも続いたのです。思い余って相談にこられたのが、四年生のときでした。
この子の住んでいる地域は、住宅地と商店街の入り交じったところで、仲間には、かなり自由にお小遣いを使っていた友だちもありました。それが、この子に一種の欲求不満を起こさせていたことはみのがせません。しかし、それだけで盗み癖がついたとは誰も考えないでしょう。同じ状況にありながら、多くの子供は別種の解決方法をとります。だから、この子のもっていた性格的な歪みが、以上の条件をきっかけにして表面に現われてきたのだと思われます。
詳しく聞いていくうちに、母親は、次のような告白をしました。この子が生まれたのは、新婚まもない頃で、まだ二人だけの甘い生活を楽しみたい時期でした。母親には、たんとなく、生まれてきた子が邪魔者であり、疎ましいという気持がありました。しかし、その気持を押し殺して子どもを育てねばなりませんでした。
当時、日本では、西欧先進国に倣って、子供をあまり甘やかさずもっと厳しくしつけなければ、という考え方が流行していました。母親は、この考えに飛びつき、授乳やおしめも時間きめにして、それ以外はなるべく近よらないようにしたのです。こうして、子供は、心理的には、母親不在のまま育っていきました。
幸か不幸か、この子はたいへん早熟でまた優秀な子供でした。小さいときから一人で育てられるのに慣れて、二歳くらいのとき、すでに自分で夜中に起き、階下のトイレまで降りて、長いくつべらの先をスイッチにひっかけて電燈をつけ、用便をすませてから戻る、という手段か二人で発見しました。三歳になると、ひらがなを読みこなせるようになりました。こんなふうに万事手がかからず、身体的発育も申し分なかったので、親類の人たちも、新しい合理的育児法の効果を口をきわめてほめはやしたほどでした。
しかし、母親には、どこか後めいた気持がつきまとっていました。はたして、七〜八年たってから、始めてむくいを受けることになったのです。ホスピタリズムの資料とあわせ考えるなら、この子の歪みは、一種のアフェクションレス・キャラクターによることがわかるでしょう。だから、表面だけは泣いて謝り、心から後悔しているようすをみせるのです。決して芯から直すことはできないのでした。
この子の後に生まれた子供は、皆、心身ともに健康で順調に育っています。時期により、母親の状況によって、同じ兄弟といっても、その環境条件には大きな開きのでてくる場合があるのです。この子は、他の兄弟と違って、不幸な心理的環境のもとに成長しました。そのことが、この子の特有の歪みを作ったのです。私たちは、母親が心身ともに安定した条件で子供を育てることがどんなに大切かを、まざまざと知ることができます。

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