早教育

早教育あるいは早期教育ということが非常にしばしば問題にされています。これは幼児教育の重要性を認識させる点では結構なことだと思います。しかし、そうした論議の中で、早教育とは何かが十分検討されないままでことが論ぜられていることが少なくないようです。これは、早教育を促進しようとする人にも、早教育などいけないと否定する人にも見られます。同じ早教育という言葉を使っても、その指していることがずいぶんずれていることがしばしばです。早教育を、明らかに誤解したり、勝手に自己流に曲解したり、重要な問題点を無視したりした上で、いわゆる早教育の可否を論じても、それはまったく意味のないことでしょう。早教育に対する見方自体に、その人の発違や教育についての考え方がよく現われていると思います。そこで、まず早教育の概念について考えてみましょう。それも、単に今までどういう意味の使われ方が多かったかということではなくて、早教育をどういう観点から取り上げるならば意義があるかということを考えてみましょう。
早教育という言葉で問題になるのは、早とは何かということでしょう。早いとは、何に比べて早いことを指すのでしょうか。いろいろの早いが考えられます。現在一般に行なわれている教育の制度より早い時期から教育すること、一般の子供の平均よりも早い時期から教育すること、その子供の発達段階よりも早く教育すること、子供の発達過程の中で早い時期に教育すること、などがあげられるでしょう。
まず、今まで日本で出された教育や心理学の事典類にのっている早教育の解説は、たいていこの最初の意味を主にしています。それらでは、就学してから教えられるようなことを学齢前に家庭で教育するのが早教育だと述べてあります。また、それは天才教育の一つの方法であるとされています。

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現行の学校制度より早いというのは、一見はっきりしているようですが、実はいろいろ疑問があります。まず、現在の学校制度はなにも絶対的なものではありません。日本の初等教育が現状のようになったのは、近々何十年かのことに過ぎません。現在問題になっている就学年齢にしても、学校での教科内容にしても、いくらでも変わり得るものです。
また、制度上の建前と実態との間にはいろいろのズレがあります。例えば、現在建前としては、小学校へ入ってから文字や数を教わることになっているのですが、実際には、子供たちは、就学する時すでにかなりの文字や飲を習得してしまっています。これをしも早教育という人は恐らくいないでしょう。
学校の制度や内容は、子供についての心理学的研究の成果を取り入れて、次第に改善していくのが当然です。学校制度や教育カリキュラムが子供の発達に対して適切か否かを論ずるべきであって、制度やカリキュラムを固定して考えて、子供のそれ以前の家庭教育が早過ぎるなどと論ずるのは、逆さまです。これは、教育の時期を、子供を技きにして、制度との比較で考えているわけです。
早教育を制変に比していう見方は、気になる考え方を含んでいます。それは、学校の教育とそれ以前の(主として家庭の)教育を切り離して考えています。しかし、教育と学習が長い積重ねの過程であることからすれば、就学前教育から学校教育へも連続的に考えるべきです。学校で教えることをそれ以前に教えるのはおかしいという考え方自体おかしなことです。
またこの見方は、就学年齢まで待たねば、学校で教える内容に対するレディネスができない、という仮定を含んでいます。しかし、レディネスはそれほど固定したものではありません。
では次に、一般の子供の標準よりも早くという意味で早教育を見る見方はどうでしょうか。たしかに、事実として教育の進み方の早い遅いはあります。もし一般の標準を平均値のようなものとすると、半数前後が平均より早い教育ということになりますか、半数を早教育とは呼ばないでしょう。では、どのくらい極端なら早教育になるのでしょうか。とにかく、この見方では、早教育は早く教育される子供にとってのみあるもので、ふつうの子供には開係のないことになります。
もし教育が発達に応じてなされるならば、発達に個人差があるのに従って、教育の進度に早い遅いの個人差があるのは当惑です。これを、年齢が同じなら同じことを教えるというように、斉一化しようとしても、とてもうまくいきません。原則として教育は、一人一人の子供について考えていくことが必要です。こう考えると、早いということには、何も実質的な意味がなくなります。
個人差ということと関連して、天才教育という言葉を取り上げましょう。かつて、子供に早期の教育をして天才を生み出そうとする試みがありました。早教育を、こうした天才教育の一方法とする見方があります。しかし、人類にとって稀な偉大な業績を上げたような天才というのは、素質と成育環境と活躍した時代との微妙な相乗の結果として現われるもので、その出現はほとんど予見を超えています。ある子供をそのような天才にしようとして、それだけに特殊な教育をするのは、ひどく見通しのない賭けです。しかも、人間にとって天才だけが大切なものではありません。また、天才でないふつうの子供にも、教育は同じように重要です。天才のための早教育があるならば、ふつうの子供のための早教育があってもよいはずです。
一方、単に知能の非常に高い者、例えば、知能検査での最上段階の者を指して天才ということもあります。もう少し広い範囲をとると、優秀児、英才児ともよばれます。これらは、個人差の極端を指すもので、普通の子供と連続的に考えるべきものです。
次に、その子供自身の現在の発達程度より早く教育を進めるという意味の早教育の見方はどうでしょうか。現在の発連程度とかけはなれた教育をしても効果がつながらないことは事実です。そこで、早教育をこのように見なして、早教育を否定する理由とされることが多くあります。これは、一見たいへんもっともなのですが、二、三の問題点があります。
まず、その子供の現在の発達程度は、はじめからわかっているのではなくて、教育を進めていく中ではじめてわかってくることです。したがって、何か学習できるか何かできないかを試しながら進んでいくのが実際です。また、あることが現在の発達程度では困難だというとき、教え方を固定して考見ているのではないでしょうか。同じ内容でも、教育方法を工夫することによって、学習可能になるかもしれません。そうした努力なしに早すぎると断定するのは、誤りです。
才能教育ということがあります。これは主に、特殊な領域での能力、例えば音楽、美術、芸能、運動技能などについての教育を指すのに使われます。一般に、これらの才能教育では早期からの教育が重視されます。また、音感のようにいわゆる臨界期、があると考えられる場合もあります。これらの才能についての早期教育は、適切に行なわれれば、その特殊な能力については非常に効果を上げることがあります。
しかし、ある領域での才能教育は、その子供の全般的な能力を高めるようになるとは限りません。特殊な才能教育で子供のあらゆる能力をひき出せるというような主張がありますが、それは疑問です。もちろん、いろいろのものへの一般的な積極的学習態度を育てることもありますが、遂に、早く特殊化した才能教育をすることによって、他の能力や全般的生活態度の発達にマイナスの影響を及ぼすこともあります。
以上、早教育のいろいろな見方について、疑問な点を考えてきました。その中で、早教育の概念そのものが曖昧なままで使われていることを指摘しました。また、比較的明確な場合には、それはかなり特殊なものを指しています。特殊な子供に対する教育、特殊な領域での、限られた方法による教育です。このような意味での同大教育は、部分的に有効さを示すことがありますが、もっと広い全休の中での効果を検討しなおす必要があります。

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